訳者解題の後で、『人間狩り』について訳者が改めて考える2、3の切り口
記事:明石書店
記事:明石書店
『人間狩り』というタイトルで何を思い浮かべるだろうか。断じて哲学書ではない、ように思われる。むしろ思い浮かべるなら、ホラー映画のジャンルだろう。例えば、アメリカで昨年3月に公開され、日本でも同年10月に封切られた『ザ・ハント』(監督:クレイグ・ゾベル)は、1932年の『猟奇島[原題:最も危険なゲーム]』(監督:アーヴィング・ピッチェル、アーネスト・B・シュードサック)以来、世界中で制作され鑑賞されつづけているこのジャンル映画の最新版のひとつである。
本書『人間狩り』の副題は、「狩猟権力の歴史と哲学」という、それだけでは内容を飲み込みづらいものではあるが、それでも、ホラー映画やスリラー映画の原案では必ずしもないということを十分に示している。ただしだからといって、本書がまったくそうしたジャンル映画に無関係かと言えば、そうでもない。というのは、この手の映画は、あらゆるフィクションと同様に、多かれ少なかれ、仮構された(現実の外部にある)世界の視点から現実の社会を取り上げ、働きかけるし、またそうした虚構はしばしば、現実の歴史を素材として作り上げられているからである。そのことの一端は、『ザ・ハント』が、金持ちが貧乏人を狩るという人間狩り映画の定番を踏襲しているだけでなく、リベラルがトランプ支持者たちを狩るという構図によって物議を醸した点にうかがえるだろう。
したがって本書は、フィクションではないが、フィクションが養分とし、それが指し示す現実を共有している。だからこそシャマイユーは本書で、アメリカやカリブ海のプランテーションで働かされてきた奴隷とその主人の関係について考察する際に、歴史的な資料だけでなく、『ゾンビの逆襲』(監督:スティーブ・セケリー、1943年)、『死の餌食[邦題:デッドリー・プレイ/地獄のプラトーン]』(監督:デヴィッド・A・プライアー、1987年)、『ゾンビはニュースキャスター』(監督:マルコム・マーモスタイン、1990年)、『ハード・ターゲット』(監督:ジョン・ウー、1993年)といった知る人ぞ知るB級映画を参照しているのである。
ただし、フィクションには作品としての終わりがあるが、私たちが生きる社会的現実には終わりはない。それゆえ、私たちはこの現実がフィクションよりも恐るべきものであることを学び直さなければならないのである。
本書のキーワードとなるのは、副題にもあるように「狩猟権力」である。まず、「権力」と聞くと、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの権力論を思い浮かべる方がおられるかもしれない。実際に1976年生まれの比較的若い書き手に属する著者グレゴワール・シャマユー自身はフーコーから多大な影響を受けているだけに、それは正しい。
ここではフーコーの権力論を手短に把握するために、2021年度の紀伊國屋じんぶん大賞のベスト1位にも輝き、広範な読者層を捉えた、人類学者デヴィッド・グレーバーの著作『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳、岩波書店、2020年)で示されているフーコー理解を見ておこう。
グレーバーによれば、フーコーは権力と支配を区別して考えている。つまり、支配においては力関係が一方向に固定されているのに対して、権力においては力関係の反転が可能となる「開かれた戦略ゲーム」があるという区別である。つづくグレーバーの議論の要点は、馬鹿げた不合理な仕事が課されるような職場の力関係においては、「脱出不可能なゲーム」が存在するのであるから、フーコーの権力論は不十分であるというものである(結果、こうした不利な力関係から離脱する――つまり仕事をやめる――ためには、所得を保証するベーシックインカムが必要であると論じる)。フーコーに関するグレーバーの理解は、やや戯画的にまとめられた感がなくはない。しかし、グレーバーの議論に示唆的なところがあるとすれば、それは、フーコーの1対1的な権力関係が、逆説的にもフーコー自身が忌避したヘーゲルの主人と奴隷の弁証法と似た2者間の対立関係を思わせる点ではないだろうか。
ヘーゲルが『精神現象学』(1807年)のなかで開陳した著名な主人と奴隷の弁証法において、奴隷は死を賭した闘いに参加する限りで自由を得る。つまり、そこでは死を賭けるという条件つきで、力関係の反転が生じる。
問題は、現実の奴隷制の支配構造を考えるならば、決闘のような公正な闘争などはありえなかったということにある。そこには、同じヒトという種のうちで繰り広げられる人間狩りに見られるような狩る者と狩られる者、捕食者と被食者という非対称的な関係性しか存在しない。それゆえ、奴隷には逃げる選択肢しか残されていないのである。そして、実際に奴隷が逃げたときに実施される逃亡奴隷狩りでは、主人が奴隷と対面で向かい合うことは稀であり、自らを危険にさらすことなく、雇われハンターや猟犬、そして兵器などの媒介を躊躇なく差し挟む。
それゆえ、主人と奴隷の弁証法では、意識の関係は二項対立であるのに対して、狩猟権力においては、三項関係の図式になっている。ヘーゲルに向けられたこのシャマユーの批判は、「権力のゲーム」に暴力の担い手として介入させられる第三者を考慮しないフーコーにも向けられたものではないだろうか(この点に関しては、シャマユーの最初の著作『人体実験の哲学』(加納由紀子訳、明石書店、2018年)に付された訳者あとがきもぜひ手に取って欲しい)。
以上のように権力論を焦点化すると、本書が理論偏重なものに見えてしまうかもしれない。だが本書の魅力は、コンパクトながらも(訳者解題や注を除けば、本論はわずか214頁)、狩猟権力の系譜を古代ギリシャから遡って現代まで辿り、地理的には大西洋を横断してヨーロッパ、アメリカ、アフリカの三大陸を扱うような時間的・空間的に広大なスケールを有する点にある。そうした世界史的な視座から描かれるのは、さまざまな時代と場所に出現する狩猟権力のかたちであり、それから自らを守り、解放するための闘いの歴史でもある。
ある意味で、本書は、その続編である『ドローンの哲学』(渡名喜庸哲訳、明石書店、2018年)とともに、2001年9月11日にアメリカで起きた「同時多発テロ事件」からおよそ20年間に渡ってつづいてきた「テロに対するグローバルな戦争」の帰結を考える際に、あるいは少し時計の針を戻すと、2020年5月25日に起きたジョージ・フロイド殺害事件を契機とするブラック・ライブズ・マター運動(BLM)の再燃といったアクチュアルな出来事を検討する際の世界史的な枠組みを提供するものと言えよう。
全体主義を専門とする歴史家であるエンゾ・トラヴェルソは、「ナチスの暴力」について、一般の見解とは逆に、その暴力の発生をドイツという地理的国境に閉じ込められた歴史に限定することはできないと指摘する。同様に、今日の暴力の形態は、産業化をもたらした資本主義の興隆、(脱)植民地主義、国家によって担われた内外の活動(治安・戦争)との関連を世界史的な視野に収めて考察するのでなければ、私たちは日々目にし、ときに被る暴力を運命論的なものとしてしか感受できないのである。