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社会に欠かせない仕事と、役に立たない仕事 「仕事」の意味を考える3冊 紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

「ブルシット・ジョブ」 とは? 人間の尊厳を搾り取る仕事はなぜ生まれる?

 まずは、今夏遂に邦訳された、人類学者デヴィッド・グレーバーの世界的話題の書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)です。誰の役にも立たない、いや本人も周囲も蝕んで有害でさえあるのに、けっこう悪くはない報酬が発生するらしい、そんな仕事があるのか? かつての社会主義国ならともかく、資本主義の世界でそんなムダが許されるわけないのでは? いや、現代の政治経済体制そのものですけどね、というスキャンダラスな本です。

 本書を読む前は、実のところ、身近な世界ではどこでも「人手不足」にあえいでいるのに、そんな仕事が本当にあるのか? と半信半疑でいたのですが、自分の仕事が「ブルシット」だと訴える人々のコメントの数々がまさにカフカ的で、現代の寓話としか言えない気持ちになってきました。随所に挿入されるこれらのエピソードは、本書のエンターテイニングな部分で、思わず笑ってしまうところもある、まさに激レアお仕事カタログですが、人としてまともな仕事を与えられないと(いかに高給であっても)いかに精神を蝕まれるかがわかるというものです。

 ここで大事なのは、そんな仕事に就く人にも同情しにくいが、「ブルシット・ジョブ」を与える力を持っているのは、もっと偉い人たちだということです。本書では、仕事の意義や実質的な業務内容よりも、部下の頭数によって自分の権勢を誇示することしか考えない人たちが、何かをしているようでしていない「取り巻き」や「書類穴埋め屋」を(昔の貴族の従者のように)召し抱える構造を指摘しています。ズバリ「経営封建制」という言葉を使っていますが、産業構造の変化とともに肥大した「情報産業」(金融などのFIRE部門を含む)の中でも、管理を専門とする階級が勃興し、「ブルシット・ジョブ」の主要供給源になっているといいます。

 一方で、どこから見ても社会にとってなくてはならない仕事に従事する人々ほど(仕事のやりがいと報酬はトレードオフだと言わんばかりに)経済的に報われない構造になっている。なぜそうなるのか? という後半の政治経済体制の分析が、本書の読みどころです。

 「仕事」の概念史まで遡る本書の克明な議論で特に銘記しておきたいのは、近年よく聞く人工知能によって人間の仕事が奪われる(あるいは解放される)といった議論でも陥りがちな、仕事イコール「生産」(工場のように完成品をproduceする)というイメージの貧困です。実際の人間の仕事は、つくるだけでなく育て保ち気遣う「ケア」の領域が(歴史的にも)多くを占めていて、その社会的価値ははかりしれないのに、合理化の名の下に数値化し、管理可能なものにしようとする。それが管理のための管理に頽落したのが、まさに「ブルシット・ジョブ」でしょう。

 それで思い出すのは、昨年の邦訳書、ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(みすず書房)です。これはとても軽く手に取りやすい小著なのですが、あらゆる分野に浸透した数値測定への執着が、医療・教育現場も含めて本来やるべきことをかえって阻害しているという指摘に、どのページを開いても思い当たることが出てきて、読み終わる頃にはずっしり重く感じたものでした。

 数字しか見ない、専門的職能へのリスペクトがない「改革」者が、かけがえのない現場を壊しがちな世界で、「99%」の側に属する人々の違和感に知的な言葉を与えたグレーバー氏の存在は貴重でした。それだけに、本書邦訳刊行後ほどなくして、帰らぬ人となったのは惜しまれてなりません。「ブルシット」と言いたくなる仕事を生み出す理不尽な支配関係からお互いに解き放たれるために、本書がより広く読まれることを願います。

「エッセンシャル・ワーカー」とはいっても… 日の当たらない公共のお仕事

 「ブルシット・ジョブ」の対極にいる「エッセンシャル・ワーカー」といえば医療・看護関係者もそうですが、清掃関係者も忘れてはいけません。最近でこそ、清掃芸人さんの本が話題を集めたりしていますが、公共の仕事を考える一冊として、藤井誠一郎『ごみ収集という仕事 清掃車に乗って考えた地方自治』(コモンズ)を推します。

 お堅い題名にもかかわらず、本書の存在に気づくことができたのは、朝日新聞の書評(2018.7.28) で、美術批評家の椹木野衣さんが取り上げていたギャップからでした。著者は大学の研究者で行政学が専門ですが、「現場」への思いが強く、清掃業務の「お客様待遇」の体験だけでは飽きたらず、「一現業職員」として密着することを選びます。本書は、新宿区東清掃センターでの著者の足かけ9ヶ月にもわたった、ごみ収集現場の「参与観察」の記録と考察です。 

 その書きぶりは、自分も一日、一年近く、一通り働いたからこその克明さで、清掃員たちの労働環境のリアリティを伝えています。つきまとう汚れ、臭い、疲労。夏は炎天下。最繁忙期の年末年始は寒さをしのぐ場所も満足にない。相次ぐ不法投棄、住民のクレーム。7時40分の業務開始から、16時25分の定時退庁まで、息つく暇もなかなかない作業を円滑に安定してこなし続けるのは、収入がそれほど悪くないとしてもキツい仕事です。

 それでも、清掃現場の仕事のていねいさには頭が下がります。そして、これが重要な点ですが、清掃員たちは、そのていねいさを見せない、住民に自分たちの存在を意識させないことに心を砕いているということです。ただ清掃車にごみ袋を投げ込んで行くのではなく、ごみの汁が散ったり狭小路地で収集に手間取ったりして住民に迷惑をかけないように、安全で効率的な方法・経路を研究しているのです。

 そんな地域へのかけがえのないサービスとなる清掃現場も、行政改革の流れの中では現業職員を削るしかなく、外部委託が推進されています。雇用の流動化で集まりやすくなった人材もあるとはいえ、正規職員と清掃会社の契約・派遣・日雇いといった立場の異なる人々が別々に現場に立つことで、委託の現場が「ブラックボックス化」し、ノウハウが受け継がれず公共サービスとして質を維持するのが困難という問題を著者は指摘します。委託現場での聞き取りもまた生々しく、清掃職員の制服を着ているから「公務員」と見られるが権限はない立場のむずかしさを思います。例えば、行政としては、ごみ出しのマナー違反は改善してもらう必要があるのに、民間では、その場の問題解決のため住民の言う通りに収集する方が安全ということになりがちです。

 清掃事業は、街がごみだらけにならず、住民の衛生が保たれる、つまり問題が起きないことが最大の価値をもたらしている典型的な仕事だけに、行政の中でも「攻め」の材料にはなりにくいそうです。しかし、著者の「現場感覚」が染み込んだ本書の議論からは、派手な「改革」よりも、こうした基礎的な行政サービスの維持こそが大変な仕事ではないのか、そこに価値を認める社会でなくては、と思わされました。

 蛇足ですが、筆者は学生時代、本書の参考文献にある『東京都清掃事業百年史』の事務局でバイトしていました。「資料整理」という募集で、昔の文書や写真をデータ化するだけの作業でしたが、自分が生まれてくる前の清掃職員たちの画像を大量にさばいていたのは不思議な体験でした。本書を読んで、どこか単なる無数の作業員として見ていたあの人たちの顔が親しいものに思えてきました。

「不要不急」でいいのか? ないとさびしい文化のお仕事

 最後は、「不要不急」と言われがちですが、ないとさびしい仕事の話です。『ブルシット・ジョブ』では、ミュージシャンのいない世界はつまらないものになると言われていました。

 クリスチャン・メルラン『オーケストラ 知りたかったことのすべて』(みすず書房)も、今年邦訳された本ですが、折しもコロナ禍の到来と重なったことで、音楽業界の中でもその必然的な集団性すなわち「密」ゆえに特に苦境に立たされたオーケストラという文化の、かつてあった豊かな世界のもっとも充実した記述になってしまうのか?という運命的な巡り合わせを感じる書物でした。

 邦訳で「知りたかったことのすべて」と副題が加えられているように、まるで百科全書の如くオーケストラのあれこれを縦横無尽に語り尽くす、それぞれ「本が一冊書けるほどの」ネタが詰まった、厚い本です(一気読みできます)。6千円という価格にたじろぐ人が多いでしょうが(筆者も最初は手が伸びませんでした)、考えてみれば、名盤を何枚も(という言い方が古いか?)聴くのと同じ愉悦の時は保証できます。元がフランスのラジオ番組だったというのが納得の語り口で、思い返すと圧倒的な博識(となかなかの辛口)が、嫌みになっていないのも魅力的です。

 オーケストラ本は数ありますが、本書は、オーケストラというたぐいまれなる有機的組織体を構成する個々の楽員たちの「れっきとした職業」たる内実、そのプレイヤーとしても組織の一員としても特異な働き方への目配りが行き届いています。

 著者(仏『フィガロ』紙の音楽批評家)は、若き頃オーケストラの名手たちに魅了されるあまり、まだネットに情報があふれる以前から、「奏者が誰かを音だけで推理し、世界の主要オーケストラの首席奏者の索引カードを作成」する作業に没頭していただけあって、どんな楽器もおろそかにせず、どの奏者がどんな働きをしてオーケストラのサウンドに貢献しているのか、手に取るように教えてくれます(まだ大学オーケストラにいた時に読みたかった…しかし、社会人として年数を経ると第二奏者や低音楽器の仕事の意味が染みてきます)。

 そして 、こんなにも多彩な個性をまとめあげてしまうオーケストラという組織が、いかなる制度、社会的なバックグランドによって支えられているのか、踏み込んで解説してくれます。独仏英米などの欧米中心ですが、オーケストラが国際化してもまだ色濃いお国柄や個性を保っていることがわかります。

 音楽の才能に恵まれ、かつ長年の修練と幾多の選抜を経た、それぞれが学校の神童、地域のエリートであった者たちが、オーケストラという大きな「会社」の歯車の一つとなる。集団に「溶け込む」のか「埋もれる」のか、とらえ方はそれぞれでも、一癖も二癖もある異能者たちが、互いの誇りを賭けて火花を散らし、時には指揮者とも闘いながら、幾多の危ない瞬間を乗り越えて、一つの楽器のように「共に鳴る」とき、コンサートホールに神が舞い降りる。そんな瞬間にライブで立ち会えたら、一生ものの体験でしょう。

 今年は、その「ライブ」の体験が断ち切られてしまいました。そのことの意味をまさにコロナ自粛期間中に考えた本、 岡田暁生『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日』(中公新書)は、単に音楽業界が苦境にあるというだけの話ではなく、「不要不急」側に立たされがちながら、私たちが生きる世界の意味を新しく開いてきた文化・芸術が、コロナ後に再起するための思考の手がかりとして重要と思いました。

 「仕事」をめぐって、あれこれと飛びましたが、やはり思うのは、制度に支えられている文化は潰すのもかんたんで、生殺与奪の権を握っている人たちには、もっと慎重であって欲しいという一事に尽きます。そして、限度を超えたと思われる事態に対しては「ブルシット」と言うかはともかく、声を上げていいと思うのです。

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