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日本固有の山岳信仰はどのようにして日本の諸宗教と習合して修験道になっていったか

記事:春秋社

富山県中新川郡立山町芦峅寺 別山
富山県中新川郡立山町芦峅寺 別山

日本人と山

 日本では、関東平野などの一部は別として、見渡せば何かしらの山が見えるところが大半であろう。それほど日本の人々にとっては、山は身近な存在であるといえる。しかし、一部の山は私たちを温かく包み込むような「ふるさと」ではなく、精霊や神々が棲む聖地であり、死霊が浄化された祖神が棲む、異世界であった。そのため、古代の人々の山に対する接し方には二種類あった。一つは、麓の里からあがめる態度であり、もう一つが、あえて山に踏み入り、祖神や神々の力を得るという態度である。後者が修験道であり、「修験」とは、山に入り、験力をえて効験をあらわすことを意味する。

古代(奈良~平安)

 葛城山の役小角(えんのおづぬ)は修験道の開祖に仮託されている。『続日本紀』には、鬼神を使役することや、伊豆に配流された話が残されている。葛城山は朝鮮半島から多くの帰化人を迎え入れた葛城氏の治めていた地であり、役小角の伝承には、不老不死となり神通力を得るために山岳で修行する道教や北方シャーマニズム、雑密などの影響が窺える。

 奈良時代には、仏教は朝廷の管理下に置かれ、都では南都六宗と呼ばれる学問仏教が盛行した。一方で、山林修行を行う私度僧の活動も盛んであり、その流れは、平安仏教を代表する比叡山の最澄と高野山の空海へとつながっている。

 平安時代には政争に敗れた人物の祟りを恐れ、その恨みを鎮める御霊会が流行した。特に恐れられた人物が北野天神として祀られた菅原道真である。他界で道真に会い、相次ぐ天変地異や疫病の原因が自身の怨念であることを直接聞いたのも、また道真の政敵である藤原時平の病気平癒の祈禱をしたのも、どちらも山岳修行で験力を得た人物であった。さらには陰陽道と関わりのある、牛頭天王を祀る祇園社の信仰の普及にも修験者の前身の験者が大きな役割を果たしている。

 また院政期に弥勒信仰や浄土信仰が広まると、弥勒が将来救済に降りてくる地とされた吉野の金峰山への御岳詣や、阿弥陀の浄土とされる本宮のある熊野詣などが盛んになったが、これらも後に修験の霊山となっている。

中世(鎌倉~室町)

 鎌倉時代には役小角の伝記が編まれて修験道が成立していく。金峰山と熊野も発展を続け、室町時代には教義や峰入作法も定まって、室町期に修験道が確立することになる。修験者が先達をつとめ、地方の人々を案内するネットワークもつくられていき、その動きは伊勢神宮など他の大社・大寺にも波及していった。

 注目すべきことは、鎌倉新仏教の祖師たちも、このような修験道の影響を受けていたことである。

法然は美作の菩提寺、一遍は伊予の岩屋山、栄西は備中の安養寺や伯耆の大山寺、道元は白山の越前馬場近くの永平寺、日蓮は安房の清澄寺というように修験の影響が見られる霊山の寺で修行している。……その後の教団形成の過程においても、浄土真宗では蓮如が白山・石動山・熊野の阿弥陀信仰をとり入れ、時宗は熊野信仰や善光寺如来の信仰と関連づけて教線をのばしている。本書、274頁

近世~近代

 江戸時代には幕府の統制の下、山伏は天台宗の本山派と真言宗の当山派に所属することになり、教義書の刊行や儀軌の整理が行われた。中期には庶民の霊山登拝が盛んになり、御師や里修験が盛行し、古来の霊山なかんずく、富士山や木曽御嶽には多くの登拝者が訪れた。富士山の富士講、木曽御嶽の御嶽講は教派神道の母胎となり、幕末期の天理教、金光教などは里修験の影響を受けている。

 明治時代には、修験宗が廃止され、天台・真言の仏教教団に属したが、中期には各霊山の講も復活し、戦後にはそれぞれ教団として独立し、現在も活動を続けている。 

 以上、歴史に沿って修験道と諸宗教の習合を簡略に見てみたが、私たちの想像以上に修験道が日本の文化・宗教と深く関わってきたことがわかると思う。このような修験道の習合の歴史を学ぶ意義について、最後に本書からの引用で締めくくりたいと思う。

本書を通じて読者各位が日本の典型的な民俗宗教である修験道が他の諸宗教とのかかわりをもち、その成立、展開に必要な要素を摂取して習合させてきた経緯や、逆に影響を与えたことについてお知りいただけたら幸せである。このことは日本人が自己の生活にとってもっとも必要とする宗教がどのようなものであるかを理解するよすがとなると考えられるからである。本書「序」viii

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