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「約束は守らなければならないのか」「なんで冬にアイスが食べたくなるの?」 哲学対話の「問い」はすぐそこに

記事:晶文社

世界に根ざしながら世界を見つめて考える哲学エッセイ『水中の哲学者たち』永井玲衣(晶文社)。
世界に根ざしながら世界を見つめて考える哲学エッセイ『水中の哲学者たち』永井玲衣(晶文社)。

なんてめちゃくちゃで、ばかばかしくて、美しいんだ

ネットで注文した商品を開封したら、折りたたまれたつるつるの紙が入っていた。静かにひらいていくと、商品の説明が書いてあり、1行目はこのような文で始まっている。

弊社の製品をご選別においでになって、ようこそいらっしゃいませ。

めちゃくちゃだ。「弊社」というハイレベルな単語が扱えるにもかかわらず、「ご選別においでになって」は、バカな小学生が考えた敬語のようである。「ようこそいらっしゃいませ」に至っては、そう来るか、と思わせるエネルギーを備えている。

だが2行目以降は、何食わぬ顔で、秩序だった文章がつづく。この商品はこんな製品でございます、何かありましたらこちらまでご連絡下さいませ。

ところどころ妙な敬語はあるものの、文章はわたしを乗せてなめらかに進む。しかし終わりにさしかかると、再び文はガタガタと揺れ始め、ところどころにぶつかりながらこのように言う。

ご配慮をいただければ、この世界の美しさをさらに信じます。

今後弊社の製品をお使いいただければ幸いです、というような文章を書きたかったのだろうか。それとも全く別の意図があるのだろうか。どうしてこんな文体なのかわからない。

わたしは、なんてめちゃくちゃで、ばかばかしくて、美しいんだ、と思った。

水中に深く潜る「哲学対話」

世界は一見まともなようで、実はかなりすっとぼけている。

ひとは生まれるけど死にます、とか、地球というものがあって回転しています、とか、わたしが考えていることが誰かに完全に伝わることはありません、とか。いろんな仕方で合理化はできるかもしれないが、よくよく考えてみるとわけがわからないことばかりだ。

たとえば水。高校生の頃、お風呂に入っていて、突然思った。なんだこれは? 水を手ですくって触ってみる。奇妙だ。めちゃくちゃだ。手からするすると水はこぼれ落ちる。意味がわからない。呆然と手を見つめる。いや、ちょっと待って、なんだ手って。なんだこの形は。どういうつもりなのか。見慣れたもの全てがぐにゃりと歪み始める。世界が崩れてしまう。いや、目の前に広がるこのまるごと、世界ってなんだ。なんであるんだ。ある、ってなんだ。答えてくれ、世界。

世界はわたしから目をそらし、すました顔でとぼけている。

おそろしくなったわたしは、どうやらこの奇妙な世界の「正体」が書かれているらしい、哲学書を手に取ってみた。きっと哲学者なら、めちゃくちゃな世界に一発食らわしてくれるだろう。手始めに、サルトルという名前の哲学者が書いた『存在と無』という本をひらいてみる。

存在とはばばばばばびぶぶべべぼ、あるところのものびびびばば、ではないところばばっええじゃややえあくうしたわかちこわかちこ。ぽぽびえばららららりる無、おわあああいいががのえしすこらぎばばびび、じつぞんしゅぎ。

本を閉じた。脳が爆発してしまう、と思った。

爆発をおそれたわたしは、ほぼ哲学書に手をつけないまま、哲学科に進学することになる。

大学では語学を学んだり、哲学史を勉強したり、がんばって哲学書を読んだりしたが、ある時、先輩に「哲学対話」なるものの会に連れていかれた。

哲学対話とは簡単に言えば、哲学的なテーマについて、ひとと一緒にじっくり考え、聴きあうというものだ。普段当たり前だと思っていることを改めて問い直し、じりじり考えて話してみたり、ひとの考えを聴いてびっくりしたりする。ひとや団体によってさまざまなスタイルがあるが、先輩に連れてこられて以来、いまに至るまでこの活動をつづけている。

哲学対話は場所を選ばない。小学校、美術館、お寺、公民館、路上、会社、カフェ、いろんなところですぐにできる。参加者は誰でもいい。知識も特に必要ではない。自分が思ったことを、自分の言葉で素直に言えばいい。それを馬鹿にするひとは誰もいない。だからといって言いっ放しでもない。誰かの考えと違っていたら、なんで違っているのか、どういうところが違っているのか、本当に違っているのか、考える。あなたがその主張をすることによって、どんな前提をもっているのかを考える。考えて、考えて、いつの間にか対話の時間は終わる。

何かを深く考えることは、しばしば水中に深く潜ることにたとえられる。哲学対話は、ひとと一緒に考えるから、みんなで潜る。哲学対話の参加を重ねたわたしはいつの間にか、ファシリテーターをするようになっていた。だからといってわたしだけが陸にいるわけではない。わたしもまた、一緒に潜り、考える。

哲学対話では、理路整然と自分の考えについて話せるひともたくさんいる。対話のあとで、書いてもらう感想に、しっかりと今日は明確に答えを導きだせました、と記してくれるひともいる。とてもすばらしいことだ。だがわたしは、対話の中でのひとびとの、よどみ、つっかえ、言葉にならなさ、奇怪な論理、わかりづらさに惹かれる。

「約束は守らなければならないのか」というテーマで話したいつかの高校生は、長い時間をかけて、水中でもがくように言葉を絞り出していた。えっと、他者というのは、そのひとがすごく・・・・・・いや・・・・・・他者は、他者は、他者だから、尊重しなければならないっていうか、尊重したい・・・・・・そうだ、でも、尊重するのは他者だからなんです。もたもたと言葉を重ねて、話は遠回りし、関係ないようなことを口走り、いややっぱり違いますごめんなさい、と顔をしかめて、他者は、他者だから、他者だから尊重すべきなんです、と繰り返す。みんなは、え? どういう意味? もっかい言って、どういうこと、どういう意味? と身を乗り出して、彼女と共に考えようとしている。

それを見たわたしはふと思う。昔読んだわけのわからない哲学書。彼は、世界のわけのわからなさを、わからないまま伝えるしかなかったんじゃないか。

だからわたしは愛する。奮闘した結果、わかりづらくなってしまった言葉も、何を意図しているのかすら全くわからなくなってしまった言葉も。わけのわからないへんてこな世界を、純粋にそのままうつしだしているように見えるからだ。彼女のからだや言葉はガラスよりも透き通って、世界をそのままうつしだす。言葉は、世界そのものである。

だが同時に、哲学対話をしているとき、あともう少しで「わかる」ということにたどり着けそうな感覚に陥ることがある。それは「最適解」のような暫定的なものでもなく、「共通合意」というような、その場だけの取り決めでもない。

もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何かだ。

それに到達するということはない。その予感がするだけ。にもかかわらず、その予感はひどく甘美で、決定的なのである。

もう少しでわかりそうな「何か」へのいとしさ

小学校で「夢と現実のちがいは?」というテーマで哲学対話をした。子どもたちはあっという間に深く潜って、ああだこうだと議論している。何か答えが出そうになっても、誰かが「いや、こうじゃないか」と言ったり、「でもそれってなんでそうなの」などと言って再吟味されていく。わたしもまた、息をするのも忘れて夢中になる。考えが出ては覆されるが、確実に何かが進んでいる。前進している。だが、終わりの時間は来る。「じゃあ終わりの挨拶をしましょう」と担任の先生が声をかけてくれる。子どもたちはわたしに懇願する。

待って! もうすこしでわかりそうなのに、待って! 終わらないで!! おねがい!

世界の正体が彼らのすぐそこに迫っている。だが、次の音楽の授業も迫っている。わたしは苦笑して、まだ深く潜っている何人かを、なんとか陸に引っ張り上げる。また明日も来てね、と女の子が小さな指をわたしの小指にからませて、音楽室へ走って行く。

わたしの授業は1回きりだから、もう彼らに会うことはできない。

「もう少しでわかりそう」という感覚は、「もう少しで思い出せそう」という感覚に似ている。

たとえば、誰かの名前を思い出すとき。誰かを指し示す情報が、吸い寄せられるようにこちらへやってきては分散する。それぞれの情景はぼんやりとしていて、うまく見えない。だからなのか、思い出そうとしているひとは、近眼のひとが遠くのものを見ようと目を細めるような、眉間に皺をよせた表情をする。

思い出せない経験はかなりもどかしい。だが、確かに思い出す対象はこの世に存在する。そのことだけが記憶の中で溺れているわたしを励ましてくれる。

何かを思い出そうとするとき、ひとはもどかしさの苦痛に顔をゆがめつつも、その「何か」に、いとおしさを感じている。かつてわたしの中にいて、わたしのものだった「何か」。たまたまそれはどこかへ飛翔してしまったが、たしかにわたしが所有していたのだ。だがもはやそれはひとかけらの姿もわたしには見せてくれない。

その代わりわたしは、それに途方もないなつかしさを感じている。かつてわたしのものであった何か、そしてそれを失ってしまった深いかなしみ。

探究とは、想起することに似ているのだ。

確かに存在する「それ」の手触り

実は同じことを考えた哲学者がいる。

古代ギリシャの哲学者、プラトンである。倫理の授業を受けたことがあるひとは「想起説(アナムネーシス)」という言葉を少しはおぼえているだろうか。アナムネーシス。古代ギリシャ語。まずこの言葉を想起することが難しい。

先日も哲学研究者の先輩が「想起説ってギリシャ語ってなんだっけ」と言ったのに対し「アムネスティですね」と答えてしまった。それは人権問題のNGOだ。「そうだったな」と先輩は言った。適当なものだ。

プラトンを読めばわかるが、想起説とはなかなかドラマチックだ。理論立てもしっかりしていて、わくわくさせられる。だが、わたしが言っているのは、もう少し感覚的なものだろう。

気配。なつかしい、何かを思い出しそうな、ずっとずっと昔に、わたしは「それ」を知っていたような感覚。確かに存在する「それ」の予感。そしてそれがいま手元にないことの喪失感と苦痛。わかったぞ、とそれをつかみ取ったと思っても、後々違うとわかったときの、失望と気恥ずかしさと、可笑しさ。

それは、見上げたはるか遠くのどこかにあるのではなくて、わたしの深いふかい魂の井戸の底に、ぽとりと頼りなく落ちているのかもしれない。

帰宅したアパートで、今日子どもたちと話した「夢と現実の違い」について考える。

哲学書が参考になるかもしれない、と本棚から引っ張り出す。やっぱり難しい。がんばって意味を読み取り、自分や誰かが言った考えとぶつけてみる。眉間に皺をよせて、思考の中に潜り込む。誰かの意見と、わたしの考えがうまく溶け合わずに、もたもたとつかみあっている。どっちかが倒れるか、和解して抱きあうかしてほしい。かと思ったら、新しく哲学者が出てきて、つかみ合いに参加しようとしている。困る、これ以上の参加者は。大乱闘だ。

それをなぜか母が見ている。

 若かった頃のなつかしい母だ。幼稚園の頃のわたしが好きだった、ベージュのシャツを着て笑っている。誰を応援しているのだろう。

 

ふと我に返ると、隣の部屋に母がいる気がした。ぼんやりした頭で扉を開けると、汚い食器がそのままの、狭い6畳の部屋がある。

母はいない。なつかしさだけが魂に沈んでいる。

陽はすっかり傾いて、青みがかった空気が部屋いっぱいに充満している。

まるで水中のようだ。

 

なんて美しいんだ、とわたしは言った。

(「あともう少しで」永井玲衣『水中の哲学者たち』より)※本記事の小見出しは、編集者が追記。

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