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いまこそ、歴史から学ぶとき ――フランク・M・スノーデン『疫病の世界史』(上下巻)

記事:明石書店

フランク・M・スノーデン著、桃井緑美子・塩原通緒訳『疫病の世界史(上)―黒死病・ナポレオン戦争・顕微鏡』/『疫病の世界史(下)―消耗病・植民地・グローバリゼーション』(明石書店)
フランク・M・スノーデン著、桃井緑美子・塩原通緒訳『疫病の世界史(上)―黒死病・ナポレオン戦争・顕微鏡』/『疫病の世界史(下)―消耗病・植民地・グローバリゼーション』(明石書店)

イェール大学の講座をもとに

 本書は疫病と社会の歴史という、大学の講座ではあまり取り上げられることのないテーマについて、イェール大学の名誉教授である著者のフランク・M・スノーデンが学生たちとともに取り組んだ内容を書籍化したものである。執筆の動機や取り上げる感染症の選択基準、内容の概要については第1章の「はじめに」で詳しく述べられている。さらにこの章では感染症と社会というテーマについて考えるべきポイントもまとめられているので、ぜひ最初に目を通すことをお勧めしたい。どんなところに注意を払いながら読み進めればよいかがわかるだろう。

 第2章以降は、慎重に選んだ感染症のそれぞれを章ごとに詳しく検討していく。まずその病気の疫学(病因、発病の機序、感染経路、症状、治療法など)が紹介され、その後に考察する社会への影響がなぜ生じたのかが深く理解できるようになっている。ひと口に社会への影響といっても、その範囲は政治、市民生活、宗教、文化と、多方面にわたる。たとえば中世ヨーロッパを恐怖に陥れたペストは、検疫や隔離といった現在も有効な基本的対策の数々が考案されたきっかけになったほか、人びとの死生観にも多大な影響をおよぼし、ペストを主題にした文学作品や絵画を数多く残した。また、黄熱、赤痢、発疹チフスはフランス皇帝ナポレオンの領土拡張の夢を打ち砕いて歴史を大きく変え、コレラの流行は公衆衛生の発達を促した。そして二〇世紀半ばからは、世界的な保健機関が設立されて感染症を撲滅するための大々的な取り組みが進められるようになった。

 それと並行して、本書の何章かは感染症に関する医学・医療の歴史と、病気とは何かという概念の変遷を主題にしている。最初の「科学的な医学」である古代ギリシャのヒポクラテスによる体液理論から話を進め、顕微鏡や実験技術の革新を経て、目に見えない病原体の正体が科学者の不断の努力により解明されていく過程を追う。

正当な怖がり方を考える

 世界はいままさに新型コロナウイルス感染症の惨禍に巻き込まれている。「いまや世界は感染症を地球上から一掃する手段をもっている」と宣言された二〇世紀の不遜の時代を通り過ぎて、人間は過去の経験から何を学んだだろうか。この新しいウイルスに世界で二億人を超える人が感染してしまったのはなぜだろう? 社会の健忘症が第一の原因だと著者は嘆く。「微生物が闘いを仕掛けてくるたびに、そのあとしばらくは、国内的にも国際的にもあらゆるレベルで狂ったように活発な動きが起こる。しかしやがては、すべてが忘却されて終わりとなる」。つまり、喉元を熱さが過ぎたあとの忘れっぽさだ。わが国では昨年二月に、乗客に感染者のいたことが発覚したダイヤモンド・プリンセス号が横浜港沖で検疫を受けるという騒ぎがあり、そこからコロナ禍がはじまった。感染者数の増減や緊急事態宣言のことばかりが取り沙汰されているように見える昨今、あのときの初動に反省すべき点があったことはもう忘れられているのではないか。そして狂騒のさなかに、誰かに罪をなすりつけたいという人間の本性が今度もまた露わになり、マスクをするしないで暴力がふるわれたり、感染者が中傷されたりする。

 現在の疫病はまさに「本番前リハーサル」だといえる。このパンデミックを乗り越え、次に備えるにあたっては、いま一度、歴史の教訓を学ぶ必要があるだろう。そしてその教訓には、医学的な面(発病の機序、病原体の特定、治療法の開発など)と社会学的な面(発病の環境要因、患者への差別偏見、生贄探しなど)がある。前者については明らかに時代を経るごとに進歩しているが、後者については人間の本性が邪魔をしてなかなか変わる気配がない。それこそが未来に向けての教訓なのかもしれない。物理学者で文筆家の寺田寅彦は、「ものを怖がらなさ過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなか難しい」と述べた。それでも禍に対して冷静に向きあおうと努めることはできるのではないだろうか。

 ◇ ◇ ◇

『疫病の世界史(上)――黒死病・ナポレオン戦争・顕微鏡』
フランク・M・スノーデン著、桃井緑美子・塩原通緒訳
疫病は人間社会の実像を映し出す鏡だ。それは個々の生を揺るがし、宗教への懐疑や哲学の刷新を促してきた。上巻ではペスト、天然痘、コレラなどの流行の実態と、ある「英雄」の見込み違いが招いた惨事、そして細菌の発見がもたらした劇的な転機を描く。〈古代~近代〉

『疫病の世界史(下)――消耗病・植民地・グローバリゼーション』
フランク・M・スノーデン著、桃井緑美子・塩原通緒訳
疫病との闘いに終わりはない。それは社会の分断線に入り込み、政治的な優先順位を露わにし、偏見や差別を助長し続ける。下巻では結核やエイズなど現代の疫病における文化・社会との接点を探り、コロナ禍のロンバルディアから未来に向けた英知をつかみ出す。〈近代~現在〉

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