日本人と神道のB面 『神道の近代』
記事:春秋社
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我々が神道という言葉を聞いたときにイメージするのは鳥居があってお参りするところ、つまり神社だろう。しかし、神社=神道というわけではない。神社はイメージできても、神道自体をはっきりイメージするのは難しい。
「神道は宗教なのですか?」という問いもあれば、「何が神道なのですか?」という疑問を持つ人もある。後者は当然起こる疑問であるにしても、にわかには答えようがない。「これが神道である」というような固有の姿を描き出すことが困難である。これまでの研究によっておおよその輪郭が描きうる程度である。一貫した姿があるに違いないと思って歴史的展開を調べていくなら、神道と総称されているものも、時代によってそのありようが大きく変わることがすぐ分かる。フィールドワークをすれば、地域によって神の観念や行事のあり方も、だいぶ違うと気づかされる。仏教やキリスト教、イスラム教のように創始者とされる人物がいるわけではないから、そもそもの始まりもどこに求めていいかに定説はない 。
神道というだけでは茫漠としているので、少し細かく区分してみて、その歴史的展開や社会における機能といったものを考えるやり方がある。これによって神道の姿の多様性を少し整理できる。ただこれもどう区分するかが、なかなか大変な作業である。『神道の近代』(pp.4-5)
つまりは、神道と考えられ、そう扱われているものを神道としてイメージするほかない。
神道は近代に大きく様変わりし、それが現代の神道まで尾を引いている。現代の神道を理解するためにはその変化に注目するのが近道である。
神道が大きく変化した時期は大きく二つであり、明治維新期と第二次世界大戦後である。明治維新期には神仏分離政策と政府の神社支配の下での神道を中心とした国民教化の動きが神道を大きく変化させた。前者は神道の枠組みを大きく変え、後者は教派神道を誕生させた。
江戸時代には神社と寺院が一体となっていた場合もあったし、同じ人物が神職と僧侶の二つの役をこなした場合もあった。また修験道は古代における神仏習合の結果生まれ、日本社会に根付いたものであった。ところが明治政府は選択の自由は認めたが曖昧さは許さなかった。神社か寺院か、また神職か僧侶か明確にするように求められた。修験宗は一八七二年の修験宗廃止令によって天台宗か真言宗かに帰属させられた。神職にも僧侶にもならず還俗する宗教家、つまり一般人になる人もいた。宗教組織と宗教家のカテゴリーを政治権力が定めたのである。『神道の近代』(p.31)
明治政府はキリスト教の影響の広まりを予想して、国学者、神道家を中心に国民教化策を進めようと、試行錯誤を繰り返した。短期間に朝令暮改に近い方針の変更が繰り返されたが、その過程で行政上、神社と神道教派とが分けられた。『神道の近代』(p.31)
第二次世界大戦後にはGHQの神道政策と宗教法人法が神道を大きく変えた。これによって国家と結びついた神道の特別扱いは終わり、宗教法人法の下で神道も含めてあらゆる宗教が横並びで扱われることになった。
教派神道の形成は明治政府による国民教化の動きと関係している。明治政府はキリスト教対策のために神道を中心とした国民教化を進めた。そのための役職として宣教使や教導職を置いた。そのなかで神道を教えとして説くための組織化が促された。
そして神社に奉仕し国家的祭祀を担う神職と、神道による教化を担う教導職の政教分離的矛盾から、両者の分離が実施されたことにより、国家に管理され祭祀を担う神社とは違う形の、布教を目的とする神道組織である教派神道が成立したのである。そうして戦前に公認されていた十三の教派神道を教派神道十三派と呼ぶ。戦後に宗教は横並びで扱われたので、教派神道という枠組みは存在しない。
神道系新宗教は教派神道も含んだ概念であり、教祖によって新しく立教された神道系の教えを説く宗教組織を指す。教派神道に含まれるが、上述の神道の組織化の流れと関係なく明治維新以前に立教された黒住教・禊教・天理教・金光教や、他の新宗教に影響した大本とその影響を受けた生長の家、著名人が信者となった璽宇や踊る神様として話題になった天照皇大神宮などがある。
つまるところ、神道教団(教派神道や神道系新宗教)の特徴とは積極的に教化をしようとするところにある。
だとするならば、神道教団が我々の神道のイメージの外にあるのも頷ける。この現代社会で宗教が敬遠されるのは、宗教が教化を行うからだとすれば、神道教団はまさにその特徴が敬遠される理由であるのだから。
しかし、神道教団は一般的なイメージである「神道は教えが無い」とか、「神道は日本人の古来の信仰」とか、「日本人は無宗教」といったものを覆す存在である。
あえて、神道をイメージする際に見過ごされがちな神道教団に目を向けることで、得られるものは多いのではないか。