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読者が変えたベストセラー――『日本国紀』元版と文庫版を検証すると(前編)

記事:幻戯書房

『もう一つ上の日本史』と『日本国紀』単行本・文庫版
『もう一つ上の日本史』と『日本国紀』単行本・文庫版

 2021年11月17日、百田尚樹著『[新版]日本国紀』(幻冬舎文庫)という本(全二冊)が出版されました。三年前に出た同著者による『日本国紀』という本の文庫版で、カバーや帯、版元の公式サイトには「当代一のストーリーテラーによる日本通史の決定版」「知られざる史実と感動の歴史秘話が満載」「満を持して、待望の文庫化!」「大増量150ページ!! 著者こだわりの超大幅加筆により新しく生まれ変わった、令和完全版!」などという、思わず胸が高鳴るような文言が並んでいます。

 今年に入り、この文庫本(以下「文庫版」)の刊行予告がアナウンスされて以来、私にはずっとその存在が気にかかってきました。というのは昨年(2020)、『もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート 古代~近世篇』『近代~現代篇』という、『日本国紀』(以下「元版」)に見られる大量の誤りなどへの注釈をまとめた書籍を、私は編集していたからです。著者は、長らく中学・高校で歴史教育者として勤められている浮世博史さん。

歴史教育への不満が生んだ『日本国紀』

『日本国紀』は元々、2018年11月10日の発売以来、基本的な史実の間違いやウィキペディアをはじめとするウェブ上からの膨大な量のコピペ(コピーアンドペースト)などで注目を集めてきました。しかし私は、この本がどれだけ批判を浴びても惹きつけられる読者が多く存在する、そんな特別な一冊となっていることに気づき、その背景を知りたいと思いました。

 すぐに思い浮かぶのは、元版の中でも述べられている、現今の歴史教育に対する、読者の不満です。日本は歴史が長い。そのぶん、学校の日本史教育では覚えることが多すぎて、「何のために学ぶか」という指針が呑み込めないと苦痛になる。それに、いまの生活認識にも直結するはずの現代史がちょうど学年末のあたりで曖昧になり、国民としてのアイデンティティがアヤフヤなまま卒業して大人になってしまう。もっと早くからしっかりした歴史観を身に着けさせてほしかった。自分や社会がこんなふうになったのは国の教育のせいだ――そんな不満です。

 実をいえば、私もその一人。生まれ育った沖縄では、一九九〇年代でもまだ過去の記憶が生々しく息づいていました。家や学校の近所で不発弾(時には人骨)が見つかりニュースになるのは日常的なことで、当時崩れたらしい城址や崖で遊ぶ。収穫を手伝っていたオバーの畑は流れ弾が飛んでくると使えなくなり、中学の同級生は「基地内就職は私たちに与えられたチャンスです!」という語学学校のテレビCMを眺めている。そんな「重たい日常」が周りにゴロゴロと転がっている環境を、敏感で小さな子供の体で受け止めるのは、ある種の鈍感さを身に着けてやり過ごさなければどこか苦しく、思春期の頃には学校教育に対する反発や忌避感を人並みに覚えるようになっていました。

日本の未来のために

 だからこそ、「驚異のベストセラーは私たちの反乱だ!」と売行を、しきりにまた小刻みに誇示する『日本国紀』に対し、歴史教育の現状や変遷を丁寧に説明する浮世博史さんのブログを読んだ時には、感動を覚えたのです。確かに、いまの歴史教育の環境には、特に生徒の理解度や満足度という意味では問題もあるかもしれないけれど、教科書は常に最新の知見を取り入れてアップデートされているし、学びは何歳から始めても良い。「万世一系」を唱えるにもかかわらず日本の王朝は二度交代(皇統断絶)していると主張してしまう、輪ゴムのようにしなやかでユニークな感性に貫かれた百田さんの文章を押し戴くよりも、まずはそれを批判的に克服する読解力を皆が獲得できるような教育を目指さなければ、未来は語れない――そんなメッセージを、浮世さんのブログからは受取った気がしました。読む人の力を信じ、なるべく事実に基づこうと努力し語りかける、そんな姿勢で綴られた『日本国紀』への注釈は、ある意味で学校教科書をフォローする一つの「通史」になっていました。一時的な金儲けに走るのではない、こういう本こそが、真にわれわれの将来を考える土台になるのではないか。そう思い、浮世さんに書籍化を提案しました。

 結果として、そのブログ連載は『もう一つ上の日本史』という二冊の本になりました。そのボリュームは、元版の2.5倍。中高生のみならず、日本史学習から長らく離れてしまった大人に向けた再入門書でもありながら、ウィキペディアをはじめ『日本国紀』が依拠した日本史俗説を次々と撃破してゆく、痛快なエンターテインメントでもあります。おかげさまで多くの読者から好評をいただき、ある方からは「この本が出たことで、『日本国紀』はもう立ち直れなくなってしまったんじゃないですか」という評価をお聞きしました。

 確かに、百田尚樹さんは以前にも、『殉愛』(幻冬舎、2014)というノンフィクションを発表した際、有志により刊行直後から数々の疑惑を指摘され、また関連する裁判でも敗訴が続き、文庫化されないまま今に至る、ということがありました。『日本国紀』も、これだけ誤りやコピペの痕跡を示されてしまっては、そのままでは文庫化はできない、少なくとも抜本的な改稿を施さなければならないだろうな、と私は感じていました。

 ゆえに、文庫版の発売が予告された時には、いったいどうなったのだろう、と興味を覚えたのです。

単行本版と文庫版を読み比べると

 そして発売当日。

『もう一つ上の日本史』を編集するにあたり、私は『日本国紀』の「刷」によってサイレント修正(どこを変えたのか読者に示さないまま大きく修正してしまうこと)された箇所が異なる、計六バージョンの本を持っていました。しかしその後、手元に残っていたのは一冊のみ。それは、「気になる部分」として浮世さんが引用したすべての文章(いわばツッコミどころ)にマーカーを引き、サイレント修正箇所を独自に集約したものです。つまりこの元版でマークした箇所を見ていけば、どのように改稿されたのか、あるいはされていないのかが一目瞭然。

 読み始めてすぐ、(オヤオヤ)と思いました。浮世さんが誤りを指摘したいくつもの箇所が、その指摘通りに変更されていたからです。それも、単に史実に合わせたというわけではなく、元版では踏まえられていなかった浮世さんの指摘の複雑で繊細なニュアンスを、正確に汲み取りなぞったかたちで。

 でも、参考文献一覧に浮世博史さんの名前はありません。まあ、それくらいのことはあるかな、とは予想していました。『もう一つ上の日本史』には刊行以来、百田さんや編集担当の有本香さんからは一切言及がなく、「読んでいない」という体裁になっていたからです。けど実は、百田さん(あるいは実務的な編集者)が、コッソリ熱心に読んでくれていたのかな、と思うと、つい微笑ましい気持ちになりました。

 ところが……。

次第に大きくなる違和感

 それが(オヤオヤオヤ?)という疑念に変り始めたのは、『魏志』「倭人伝」に関する記述からでした(『日本国紀』「当時の日本社会と日本人」の項)。『もう一つ上の日本史』で浮世さんは、次のように書いています。

『日本国紀』元版での検証された箇所の例と、付箋
『日本国紀』元版での検証された箇所の例と、付箋

 ちなみに、『魏志』「倭人伝」で私が注目するのは、/「其の会同・坐起には、父子男女区別なし」/こここそ、見過ごしてはいけないところだと思っています。話し合いなどで集まるときは、男女長幼なく座る(男女共同参画社会っぽい?)。

 次の一段落は、『日本国紀』の元版にはなく文庫版で新たに加筆された記述です。

 もうひとつ注目すべき記述は「その会同・座起には、父子男女の別なし」というものです。つまり集会の席では長幼や男女の区別がなかったというのです。ここには女性を一段下に見る文化はありません。おそらく魏の人にとっては、これも変わったことに見えたのでしょう(風俗や文化の記述は当り前のことは記されない傾向がある)。

 あるいは、『万葉集』について。『万葉集』はすごい、1300年前にこのような文化は世界のどこにもなかった、という元版の記述に対して、浮世さんは次のように書いています。

『万葉集』が素晴らしい、世界に誇るべきものだ、というのは私もまったく同感なんです。でも、日本の素晴らしさは、他者の価値を下げないと伝えられない、なんてことはないと思います。外国の方に「『万葉集』って、どう素晴らしいの?」とたずねられて、「千三百年も前に、こんな文化は他になかったからだ」と胸を張ったら笑われてしまいます。むしろ、いくつか和歌を挙げて背景を説明するだけでも、読者に『万葉集』の素晴らしさを伝えられるはず。「こんな歌があって、当時の歴史はこうで……」と解説できたほうがいいじゃないですか。
 ちなみに私は、有間皇子や大津皇子のこんな歌が好きです。
〈家にあらば笥に盛る飯を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る(有馬皇子)
 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(大津皇子)〉
 彼らのように、権力闘争に敗れた人物の和歌さえも、『万葉集』には取り上げられています。罪は罪、でも人は人。権力に敗れた(陥れられた)人の悲哀、悲劇を、政治に阿らず伝える、そんな意志が、ほんのりと漂っていると思うのですが、どうでしょう?
 戦時中なら、防人の歌、なんてきっと怒られたでしょうね。兵隊さんの苦労話が書かれた小説は発禁になりましたから。

 それに対し、『日本国紀』文庫版では、元版にない次の一節が新たに加筆されています。

 また権力争いに敗れた朝敵と見做される人物の歌や、防人歌のように、故郷を遠く離れて九州の前線に配置される兵士の悲哀を嘆じた歌も入っています。受け取りようによっては政権や政策批判とも見える歌でさえ収録されているのです。ここには、歌において罪や思想は問わないという姿勢が見られます。

 さらに、次のような文章から始まるコラムも文庫版では新たに書き下ろされています。

 万葉仮名の読み方がいかに難解なものか、ひとつ例を挙げてみましょう。次に紹介する歌は、私の大好きな歌人で「歌聖」と称えられる柿本人麻呂の有名な歌です。
「東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」(……)

「其の会同・坐起には、父子男女区別なし」にせよ「和歌を挙げて背景を説明する」にせよ、「史実」というよりは、歴史書の記述に対する浮世さんの助言ないし監修、とでもいうべきものです。それがこんなふうにピンポイントで重なっていながら、参考にしていない、という体裁を装うのは、なかなか無理があるのではないしょうか。そう思い、私は文庫本二冊に書き込みを入れながら、二週間かけて読み終えました。『もう一つ上の日本史』の指摘に対する反応を、採用/無視/反論、の三パターンに分けながら読んでいったのです。その結果、次のような数が得られました。

 採用:300箇所以上
 無視:100箇所以上
 反論:50箇所以上

「〜以上」と微妙な書き方をしているのは、「部分的に受け入れながら反論する」といった判定の難しいパターンも見受けられるからです。また「採用」のカウントについては、先のような助言の他、データの誤りの訂正、込み入ったニュアンスの反映、「〜である」という断言から「〜という説もある」といったトーンダウン、デマエピソードの完全削除、などを含んでいます。

読者は無料校正者なのか?

 一方、先述のように、『日本国紀』元版には発売以来、読者からの多くの疑問の声が寄せられました。その一つが「コピペ問題」。それについては、文庫版を見ると、さすがに元版より多少「コピペ」の記述に手が入っている印象を受けます。その意味では、読者一同の指摘が、この「10000箇所以上、10万字以上の加筆修正」(百田さんのtwitter上での発言より)を促した、つまり、多くの読者の歴史と出版物に対する思い、愛、厳しさが、この「65万部突破のベストセラー歴史本」を抜本的に変えた、と断言できます。

 しかし……その上で思うのです。著者あとがきや、元版には全くなく文庫版で初めて記載された「主要参考文献」一覧などに、こうした読者の協働は一切、言及されていません。それに、自説に関係の薄い初歩的な史実の誤りは、未だ放置されたまま(たとえば、「室町時代には南朝【実際は北朝】が正統と見做されていた」「フランシスコ・ザビエルが本国【実際はインドのゴア】に送った書簡」など)。

 膨大な誤りが多少修正されてよかった、これで「当代一のストーリーテラー」の話術により多くの読者に少しは正確な日本史へ興味を持ってもらえる……はたして、そのように考えてよいのでしょうか。私は、どうも疑問を感じるのです。

(次回、さらなる検証結果をご紹介いたします)

(幻戯書房編集部・名嘉真春紀)

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