読者が変えたベストセラー――『日本国紀』元版と文庫版を検証すると(後編)
記事:幻戯書房
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前回の続きです。
「前編」の最後で、私は、『もう一つ上の日本史』に対する『[新版]日本国紀』の反応を数え上げ、次のように書きました。
採用:300箇所以上
無視:100箇所以上
反論:50箇所以上
(……)(「採用」のカウントについては)助言の他、データの誤りの訂正、込み入ったニュアンスの反映、「〜である」という断言から「〜という説もある」といったトーンダウン、デマエピソードの完全削除、などを含んでいます。
今回はまず、「採用」の具体例をいくつか紹介しましょう。引用文による比較が続くので、記事として平板な印象を与えるかもしれませんが、よーく読んでいただければ、その影響がおわかりになると思います。
さて、「助言」は前回挙げたので、「データの誤りの訂正」から。(以下、引用文の出典について、『日本国紀』単行本は【元版】、『もう一つ上の日本史』は【浮世】、『[新版]日本国紀』は【文庫版】と表記。また漢数字は洋数字に変換しました)
たとえば、宮内庁管理の陵墓について。
【元版】宮内庁が管理する全国899の陵墓は、(……)(p30)
【浮世】これは誤り。陵は188、墓は555です。「899」は火葬塚、分骨所、陵墓参考地などを含めた数です。(上p36)
【文庫版】令和3年(2021)の現在、宮内庁が管理する陵墓は743(陵が188、墓が555)です。(上p47)
「菅原道真の祟り」について。
【元版】道真を追い落とした藤原氏の主だった男たちが次々と急死し、その子供たちも次々と亡くなっていく。道真を左遷に追いやった首謀者の藤原時平はそれを見て、道真の祟りに怯えながら狂い死にする。それでも祟りは収まらず、今度は皇太子までもが亡くなる。(75~76頁)
【浮世】菅原道真の死は903年。以下は道真の「怨霊が原因」で死んだとされている八人の没年です。906年 藤原定国/908年 藤原菅根/909年 藤原時平/913年 源光/923年 保明親王/925年 慶頼王/930年 醍醐天皇/936年 藤原保忠(……)
(『日本国紀』の)記述は事実関係・前後関係を誤認しています。これではもはや、まったく新しい別の道真怨霊物語。藤原時平は、いったい誰とその子どもたちが、次々と死んでいくのを見たのでしょう? おそらく、『大鏡』に記された時平の息子・藤原保忠の逸話とごっちゃになっていると思います。(上p75~77)
【文庫版】以下、「祟り」で死んだとされる人と年代を記します(わかりやすくするために西暦で記します)。906年、道真の左遷のきっかけを作った藤原定国が死亡。908年、同じく左遷のきっかけを作った藤原菅根が落雷により死亡。909年、左遷の首謀者である藤原時平が死亡。913年、道真の後任となった源光が沼にはまって死亡。923年、時平の甥で皇太子の保明親王が薨去。925年、保明親王の息子の慶頼王も薨去。(上p118~119)
続いて、「込み入ったニュアンスの反映」。
遣唐使について。
【元版】平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使の廃止である。(p68)
【浮世】遣唐使の「廃止」ではなく、「停止」と現在では説明します。(上p69)
【文庫版】平安時代の大きな出来事といえば、まず遣唐使の停止が挙げられます。(上p107)
応仁の乱以後の「下剋上」について。
【元版】戦国時代を象徴する「下剋上」の思想もこの時代に生まれた。(p131)
【浮世】これも誤り。後醍醐天皇の「建武の新政」を風刺した「二条河原の落書」の中にすでに「下克上スル成出者」と出てきています。(……)「下剋上」は時代の節目、特に体制に変化があったり混乱したりした時にはよく見られた現象です。(上p175)
【文庫版】戦国時代を象徴する「下剋上」の思想もこの時代に色濃くなっていったものです。(上p213)
お次は主張の「トーンダウン」。「事実である」と断言していたものを、百田さんの独自見解や「~という説もある」などとして、主張を後退させるパターンです。
豊臣秀吉によるキリスト教宣教師の追放について。
【元版】当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割をさせ、中南米や東南アジアの国々を植民地にしてきたことは事実である。(p154)
【浮世】ネット上ではよく見かける説明ですが、事実ではありません。もしそのような例があるならば、具体的に挙げてほしいところです。/これは、中南米やフィリピンに適用された、「エンコミエンダ制」に関する誤解から生まれているものだと思います。(……)(上p204~p205)
【文庫版】私は、当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割をさせたのではないかと考えています。前述したヴァリニャーノの手紙からもそうしたニュアンスが読み取れます。
江戸時代、徳川吉宗が設置した「目安箱」について。
【元版】大和朝廷成立以来、千年以上、庶民は政府に対し口を出すことはできなかった(直訴は極刑)。その伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くというシステムは、近代の先進国でもおそらく初めてのことではないだろうか。(p203)
【浮世】「目安箱」は、戦国時代からあったようなんです。ですから、「日本史上初の画期的なシステム」というわけではありません。(……)中世ヨーロッパの諸都市ではすでに市民が市政の運営を行なっていましたし、十三世紀のイギリスでも、都市の代表や地主などが貴族とともに議会を形成していました。享保の改革とほぼ同じ頃の十八世紀初期、やはりイギリスでは本格的に議会が機能していて責任内閣制も始まっていました。違う形で人々の意見を吸い上げる制度ができていたので、「投書箱」という形式をとる必要などありません。庶民の訴えをお上が聞き届ける、という形式はむしろ前近代的と言えるでしょう。
【文庫版】大和朝廷成立以来、千年以上、基本的に庶民は政府に対し口を出すことはできませんでした(直訴は最悪の場合、死刑)。吉宗はその伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くことをシステム化したのです。目安箱に似たものは江戸幕府以前にもあったようですが、吉宗の作ったそれは単なる庶民のガス抜きではありませんでした。(上p319)
「デマエピソードの完全削除」。これはわかりやすい例を挙げるために、第二次大戦後まで時代を飛ばしましょう。
GHQが計画した情報政策、いわゆる「WGIP」については、『日本国紀』後半部のキモとなっており、浮世さんの指摘について百田さんもいくつか反論しています。その一つ、カナダの外交官ハーバート・ノーマンに関する文書について。
【元版】GHQが日本人に施した洗脳は、戦時中の中国・延安で、中国共産党が日本人捕虜に行なった洗脳の手法を取り入れたものだった。このことは近年、イギリス国立公文書館が所蔵する秘密文書で判明しており、(……)「WGIP」が、中国共産党の洗脳に倣ったことを伝える文書は、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)と呼ばれるファイルに残されている。(p430~431)
【浮世】「ノーマン・ファイル」を百田氏は本当に読まれたのでしょうか。読まれた上で、「戦後の日本は、共産主義者たちの一種の「実験場」にされたようにも見える」(432頁)と本気でおっしゃっているんでしょうか。どこを読んでも、そんな話は出てきません。「近年、イギリス国立公文書館が所蔵する秘密文書で判明しており……」という部分も違和感をおぼえます。このファイルが公表されたのは2010年ですが、内容自体はこのファイルで初めて明らかになったようなものではなく、1980年代には詳細にわかっています(大森実『赤旗とGHQ』、アメリカ戦時情報局『延安リポート』など)。
【文庫版】(削除)
ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立った際、日本人による暗殺を恐れて失禁していた、という、最近ネット上で人気のエピソードについて。
【元版】昭和20年(1945)8月30日に厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官のマッカーサーは、サングラスをかけコーンパイプをくわえ、日本人を睥睨するようにタラップを下りてきたが、この時、決死の覚悟を持った日本人による暗殺を恐れるあまりズボンの中に失禁していたといわれる。(441頁)
【浮世】これはマッカーサーに関する数ある俗説の中でも、荒唐無稽さにおいて「マッカーサー神社」を上回り、低劣さにおいても類を見ない恥ずかしいものなので、削除されたほうがいいと思います。/マッカーサー来日の際の画質の悪い写真から、「ズボンが濡れているように見える」という俗説(明らかにズボンのしわの影でそのように見えるだけ)が近年、ネット上の一部で広まっているようですが、何しろアメリカ側にとっては「記念すべき」一瞬ですので、実際には「濡れていない」鮮明な写真がたくさんあり、またカラーの動画も残っています。ご確認いただければすぐわかることです。
【文庫版】(削除)
以上、『もう一つ上の日本史』に見られる指摘と、『日本国紀』文庫版の修正箇所の比較例を、ほんの少しだけ挙げてみました。あまりにも選り取り見取りで(時代によっては頁毎に指摘がいくつも反映されているように見える箇所も)、どれを挙げるか悩んだほどですが、同じ調子で挙げていくとそれも(本一冊分を超える)膨大なボリュームになってしまうので、今はこの辺で留めておきましょう(もしも時間が許せば、『[新版]日本国紀』訂正表wikiのようなサイトを作ってみたいものですが)。
また本来ならば、「無視」や「反論」についても同じだけの分量で紹介するべきかもしれませんが、ここではその傾向についてだけ、述べておくことにします。
『日本国紀』の記述には元々、歴史的人物に関するゴシップや俗説が大量に採用されていました。つまり、ひとくちに「史料」といっても、その信頼性には差がある(史料の信頼性を検証することが歴史学の役割の一つだと思います)。『古事談』や『三王外記』のようなゴシップ集であろうと、より面白いエピソードがあればそっちの方を採る、科学的な歴史学が発達する以前は、過去の人だってそういうゴシップを真に受けていた――というのが『日本国紀』の基本的なスタンスなので、それを「『日本国紀』に書かれていることは全て事実」(百田さんご本人のTwitter上での発言より)と言われると、「それは違う」という反発が沢山出てくるのは当然だと思います。
同じことは、近現代の記述についてもいえます。すなわち、『古事談』や『三王外記』といった昔のゴシップ集と同じような感覚で、ネット上に広がっている面白エピソード(マッカーサー失禁説など)を採用すると、デマのリスクが高くなる。ネットと史料はさすがに違うので、あまりにも明白なデマについては、「過去の人だって信じていた」という論法が使えず、削除せざるをえなかった、ということなのでしょう。逆に、あと二百年ぐらい経てば、『日本国紀』も歴史史料として扱われ、現代に生きる我々も「過去の人はこんなことを信じていたんだなあ」と思われているかもしれません。
そんな中で、「無視」や「反論」をされているのは、『日本国紀』全体の論旨上自説をゴリ押ししたい、あるいは関係が薄いと思われたのか放置されている箇所ですが、見逃せない記述もあります。たとえば前回挙げた、「室町時代には南朝【実際は北朝】が正統と見做されていた」という記述はそのまま(無視)。南北朝正閏論は保守派の論者が長らく重要視し時に論争を続けてきた部分であり、『日本国紀』の主要テーマである「万世一系」とも深く関わります。ここを放置しているというだけで、(この百田という著者は、我が国の伝統を何も知らない人なんだな)と思われても仕方ありません(実際、ディープな保守派の方のそういう意見を刊行以来いくつか見かけました――などと書いておくと、また文庫版の増刷時にサイレント修正してくれるかも?)。
『日本国紀』の誤りを指摘する試みについては、刊行以来、「どうせイデオロギーありきの、情報戦の一環として出された本なのだから、重箱の隅を突いても仕方がない」という意見も見かけました。つまり、百田さん側は「事実」よりも「日本人としての誇り」を与えてそれがウケてるんだから、パクリだの何だの幾ら言っても意味がない、という意見です。確かに、その一面も否定はできません。が、私は『もう一つ上の日本史』編集にあたって、「事実」という重箱の隅を突くことの積み重なりが、読者の「誇り」を支えることに繋がるはず、という、両面立ての方針を重視したいと思いました。というのは、『日本国紀』の記述の事実性については、歴史を愛する様々な分野の方が、思想の垣根を超えて「共闘」する、という稀有な光景を目撃していたからです。そこに私は、「分断」とは異なる可能性を感じました。その方針が無ければ、浮世さんの本がここまで支持をいただくことはできなかったでしょう。
浮世さんとの企画がスタートして以来、日々『日本国紀』の動向をチェックする中で、私はこれまで積極的に触れてこなかった、様々な立場による書籍や意見を目にする機会に恵まれました。中でも、浮世さんの論の中でいちばん目から鱗だったのが、「歴史教科書はなぜ、どのようにして書き換えられるか」を随所で解説した部分。それまで「メタヒストリー」だとか「史学史」だとか、歴史学の趨勢は時代によって変遷するらしいと知識としては知っていましたが、(ナルホド、こんなふうにして変わるのか!)と、初めて具体的に実感できたのです。と同時に、そういうカラクリを知らないと、「日本の歴史教育は戦後ずっとGHQに操られたまま!」というような硬直した見方になっちゃうんだな、と恐ろしくなりました。「自虐史観をぶっ飛ばせ!」というかけ声は、威勢はいいけれど、大人が抱く真の「誇り」としては、単純すぎて弱い。「学生時代、歴史の授業が苦手だった」「歴史教育に見放された」と感じているであろう多くの方々(私もその一人です)が、こうした歴史(学)の面白さ、恐ろしさにアクセスする一助となれないものか……僭越ながら、そのようなことを考え続けた企画でしたが、大きくいえば、ヒトが生まれ学び社会を構成しやがて歴史となる営みを続ける限り、その課題が消えることはこの先もないのでしょう。つまり、「『日本国紀』的なもの」が文化をハックする余地は、これまでにもあったし、これからもある。私自身、これからも考え続けたいと思っています。
もとより、『[新版]日本国紀』を読んで面白かった、初めて日本史に興味を持った、という方の「感動」を奪ったり否定したりする気持ちは、私にはありません。ただ願わくは、その「感動」を、より良いかたちで活かしていただきたい、と思うのです。オススメは、「面白い!」と勢いがついたその流れでぜひ、歴史に関する他の本も読んでみてはどうでしょう、ということです。すべての本はその一冊だけで成り立っているのではなく、あらゆる他の本へと開かれ、広大なネットワークを形成している。読書の醍醐味は、単に「真実を知る」よりも、むしろそこにある。『日本国紀』のロジックに則っていえば、参考文献が一切なく「鎖国」していた百田さんが、文庫版では参考文献をたくさん挙げて「開国」している。とすれば、本当の「民主化」が始まるのは、ここからではないか?
教科書だけを信奉するのでも、押し付けられた「誇り」を唯々諾々と抱えるのでもない。根拠の信頼性を一つ一つ試しながら、自らの信じるべきものが何かをさがす。おそらくその探究が、真の「誇り」を育てるはず。
私はそう信じています。
(名嘉真春紀・書籍編集)