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中世・氏名・旅行 現代との大きな違いに驚く3冊 紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

昭和30年代の団体旅行は「長期・長距離の旅を叶える夢の手段」だった。飛行機での移動は一般的ではなく、信用金庫の積立旅行などに限られていたという(「団体旅行の文化史」より)。
昭和30年代の団体旅行は「長期・長距離の旅を叶える夢の手段」だった。飛行機での移動は一般的ではなく、信用金庫の積立旅行などに限られていたという(「団体旅行の文化史」より)。

現代の「常識」「道徳」の埒外に逞しく生きる人々

 「室町は今日もハードボイルド」(清水克行著、新潮社)が取り上げるのは中世の人々。その行いは現代人からは無秩序で暴力的、非常識的で非道徳的に見える。その例をいくつか紹介する。

 中世にあった「うわなり打ち」という習慣。漢字で書くと「後妻打ち」で夫が妻を捨てて別の女性に走った場合、妻側が手勢を率いて夫を奪った女の家を襲撃・破壊、場合によっては殺害するというもの。源頼朝の妻・北条政子が、頼朝の愛人をかくまっていた頼朝の家来の屋敷を襲撃させたのは有名な逸話である。これは政子だからこそ、というわけではなく中世の女性に当り前に許されていた行為なのである。

 当時各地には山賊・海賊による私設の関所が無数にあり、通行料を徴収していた。徴収する側も無法なゴロツキ集団というわけはなく彼らなりの秩序はあった。とはいえひとつ間違えば悲惨なことになる。上京中の山伏集団に私設関所の青年が目を付けて仲間と共に湖上船を襲撃、命乞いすら無視してほぼ皆殺しにする。その後、青年の父が責任をとって自決、青年は父の死に衝撃を受け仏道に帰依する……という顛末だ。十数人殺しておいて父一人の死で世を儚むとは疑問符のつく話だが、当時独特の考え方が読みとれる。

 他にも強烈な武勇伝を持つ桶屋、隣国・朝鮮にニセモノの使節団を派遣し返礼品をだまし取る詐欺集団、古文書に記されたムラ対ムラの死闘……など、あきれを通り越して笑えてくる逞しく生きる人々の逸話が多く紹介されている。

 現在から見れば無秩序で暴力的に見える彼等の所業だが、それも彼らなりの常識・道徳に従っていた。それは現代の我々も同じことでどちらが優れているわけでもない。我々はある時代の道徳を切り取って美化・普遍化しがちであるが、全ての時代を貫く道徳などない。そんな幻想をぶち砕いてくれる痛快で愉快で爽快な一冊だ。

明治から江戸への知られざる名前の変遷

 我々は日本人の「氏名」には昔からの形式があると漠然と考えている。だが「氏名の誕生」(尾脇秀和著、ちくま新書)は、現在我々が伝統形式だと思っている「氏名」は約150年前に明治政府によって創出されたものだと、その紆余曲折を明らかにする。

 まず、明治以前の江戸の武士・庶民の人名の常識は現代とまるで違う。現代では出生時に戸籍登録されたものが「本名」であり変更は原則しない。それに対し江戸時代では改名は何度でも行われる。また、松平「定信」といった現代では本名と思われるものも「実名」といわれ日常で使用されない。主に使用されていたのは「通称」で、それは官名やそれに由来するものに基づいていた。「信濃守」「源右衛門」などだ。それも人名符号としか認識されておらず、農民はもちろん武士ですら意味を考えはしなかった。

 そんな武士や庶民に対して、公家は「称号」(「苗字」ではない)に朝廷から与えられた正式な官名を呼称として用いていた。「一条左大臣」のように。さらに公家たちはこれを人名とはみなさない。「藤原」「源」「平」のような特定の血族集団の共有する一族の名である「姓」に「名(実名)」をつけた、「藤原+道長」のような「姓名」があくまで人名であった。公家から見れば武士や庶民は勝手な官位(のようなもの)をつけた名と実が一致しない許容しがたいものだった。

 明治維新を機に、旧公家達は本来少数派だった自分達の常識をもとに「名」を理想の形に戻そうとした。だが現実を無視した理想の押し付けにより、同姓同官の呼称が同一になる、官職がかわるたびに「名」が変わる……など様々な齟齬を生じた。多くの混乱と旧公家達の失脚後、旧公家の夢想方針を撤回、最終的に「苗字+名(実名と通称が統合)」に落ち着ついた。この時苗字を名乗る習慣の無かった庶民にも徴兵・徴税の管理上の都合から強制的に苗字を名乗らせ、改名を制限した。これが今につながる「本名」に至るのである。

 現在の名前に至るまでの経緯には知らないことが多すぎる。本書の内容には発見と驚きがあって非常に刺激的に読める。特に維新後の大混乱は名前の恣意性をはっきりと感じさせられ、現在の名前に対する様々な問題に対して寛容に向き合えるようになるだろう。

「娯楽」としての旅の系譜

 「可愛い子には旅をさせよ」は「手元に置いて甘やかさず苦労させるべき」という意味。旅は今でこそレジャーの代表格だが、昔は苦難、困難、修行の意味合いが強かったのだ。「団体旅行の文化史」(山本志乃著、創元社)では旅の変遷と大衆化の系譜を明らかにする。

 長らく苦難と困難であった旅の状況に変化が生じたのは江戸時代初期。参勤交代をはじめとする公儀の制度の必要上から街道と宿場が整備された。このシステムを享受することによって「伊勢参り」などの「お参り」を建前として旅する庶民の群れが出現する。旅の「大衆化」が始まり、旅に「娯楽」の側面が加わった。これ以降「娯楽」としての旅の一面は日本に引き継がれていく。

 明治の鉄道導入が旅に与えた影響は甚大で、移動距離と時間を短縮、大量輸送が団体旅行の本格的な組織化を後押しする。そこに「通過儀礼」、「学び」としての昔からの旅の一要素が加わり「身体鍛錬」と「学術修養」を目的とする修学旅行が登場。多くの人が体験する行事だが、20日かけて遠方から東京を見物したり数週間かけて朝鮮半島・満州を巡ったりするのは現在との違いをはっきりと感じられる。

 戦中から一時、旅行に制限がかかるが、戦後しばらくして解かれると再び団体旅行が隆盛を迎え、「親睦」を目的とした仕事仲間での社員旅行や企業による招待旅行が盛んに行われた。さらに自由化された海外へも団体旅行は広がってゆく。その様子が当時の旅行添乗員の証言を通して活き活きと描写されている。証言による旅行の様子はまさしく隔世の観で本書の中でも読み応えのある箇所だ。

 コロナ禍によって旅行は大打撃を受けた。いつになるかわからない収束後も旅行形態が変化するのは間違いなく、今は旅行というものを見直し、振り返る時期ともいえる。コロナ禍以前の自分達が体験した旅行を記録・分析することも大事だろう。急激な社会変化はわずか数十年前の旅行記録すら埋もれさせてしまうのだから。

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