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『バカロレアの哲学』フランスの高校生が哲学の授業で学ぶ「思考の型」

記事:日本実業出版社

フランスの哲学授業は「市民」を育てることを目的としている 写真:Howard Bouchevereau/unsplash
フランスの哲学授業は「市民」を育てることを目的としている 写真:Howard Bouchevereau/unsplash

バカロレア哲学試験の誤解

 フランスの高校生は哲学を学ぶわけですが、それに対して日本ではどのようなイメージがあるのでしょうか。毎年6月にバカロレア哲学試験が行なわれると、哲学の問題がすぐに日本語に翻訳されてSNSなどで拡散されます。「高校で哲学を学ぶフランス人はすごい! それにひきかえ日本は…」という反応が毎年繰り返されます。

 大げさかもしれませんが、日本にはないものがフランスにはあり、それを褒め称えるような気持ちがそこにはあるように見受けられます。それはひとえに、芸術や美食が代表するフランスとフランス文化に対する畏敬と称賛の念が、哲学という「よくわからないが高尚なもの」にも当てはめられていると言えるのではないでしょうか。あるいはそれは哲学そのものというよりも、「フランスの高校生が哲学を学んでいる」という事実に対する驚きと言った方がよいでしょう。

 しかし、(特にバカロレアの)哲学に対するハードルは、音楽や絵画や美食に比べると高いように思われます。音楽や絵画は、鑑賞しさえすれば、詳しいことはわからなくても好き嫌いの判断はできそうです。美食は、慣れが必要な食材や調理法もあるでしょうが、食べてみればわかります。それに対して哲学はそこまで簡単ではありません。バカロレア試験の問題を見ても、とりつくしまもないように思えるのではないでしょうか。一文で出題される問題に、高校生が4時間かけて答えるというのはどういうことなのでしょうか。

 よくある誤解は、高校生たちがぶっつけ本番でこの試験を受けるのではないか、というものです。バカロレア試験は高校での学習の成果を見るものですので、これは違います。哲学を一年間学んだ成果が試されるのです。

 もう一つの誤解は、バカロレア哲学試験の問題に対して、受験生たちは自由に自分の意見を述べる、というものです。自分の考えたことを、自分の言葉で表現する、それがバカロレア哲学試験で試されることであり、そうした訓練のおかげでフランス人は堂々と自己主張ができるのだ、という主張は一見もっともらしいのですが、間違いです。

『バカレロアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』(坂本尚志 著)
『バカレロアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』(坂本尚志 著)

目的は「思考の型」の習得

 なぜこれが正しくないのでしょうか。実は、バカロレア哲学試験は「自由な思考」ができるかどうかを見る試験ではありません。単なる「意見」や「感想」を書く試験でもありません。その意味では、日本の小論文や読書感想文とはまったく異なります。日本の文章教育では、形式にとらわれない思考や、書く人の個性や感性が表現されていることが評価されることが多いのかもしれません。そうした先入観でバカロレア哲学試験の問題を見ると、まさに自由で創造的な思考を文章によって表現することが求められているように思えるのかもしれません。

 実際にバカロレア哲学試験が試すのは、「思考の型」がマスターされているかどうかです。「思考の型」とは何でしょうか。それは、一文で表現される問題を決まった手続きによって分析し、解答を「導入・展開・結論」という三つの部分からなる構成に従って書くという、バカロレア哲学試験で要求される答案作成の方法です。フランスの高校生はこの「型」を一年かけて哲学の授業で学びます。バカロレア哲学試験は、その「型」が使いこなせるかどうかを評価する試験なのです。

「哲学とは型である」と言うと、驚く人もいるでしょう。哲学に必要なのはものごとを違った角度から見るひらめきや、一つの問いを考え続け、独創的な答えにたどりつく才能ではないか、と思う人もいるかもしれません。こうした哲学の理解自体正確なものではないと私は考えますが、それはさておき、フランスの哲学教育が「型」の学習であるのはなぜなのでしょうか。

 まず注意すべきなのは、フランスの高校での哲学教育が、知識や学問としての哲学を習得させることを目的としていない、ということです。哲学教育の目的は、権威を鵜呑みにせずに自分で考え、発言し、行動することができる「市民」を育てることです。そのための手段が哲学です。哲学の歴史やさまざまな哲学者の主張を理解すること、覚えることではなく、そこでどのような思考の方法が使われており、どのようにそれを使うことができるか、を知ることが重要なのです。

「思考の型」は、そうした「市民」が⾝につけているべき、思考し、表現する作法の基礎となるものです。それは哲学という、西洋が歴史的に複雑な思考の範型としてきた知を題材として、自分で考え、表現することのできる人間を育てることを目指すものです。

「思考の型」を踏まえた討議の場が民主主義社会の基礎になる 写真:Matthieu Joannon/unsplash
「思考の型」を踏まえた討議の場が民主主義社会の基礎になる 写真:Matthieu Joannon/unsplash

市民を育てるための「型」

 しかし、自分で考え表現することと、「型」を身につけることは矛盾しているように思えるかもしれません。「型にはまった考え」というのは、杓子定規で、独創性や創造性とは正反対の意見を指すというのが一般的な理解でしょう。それでもなお、「型」が重要であるとはどういうことでしょうか?

 実は「思考の型」と「型にはまった考え」の「型」は違うものなのです。「型にはまった考え」は、たとえば「男は外で働き、女は家を守る」のような旧態依然とした考え方を指しますが、そこで問題になっているのは考えの「中身」が金太郎飴のように画一的であるということです。

 それに対して、フランスの哲学教育やバカロレア哲学試験で身につけることが目指されている「思考の型」は、さまざまな意見を表現するための共通のフォーマットです。つまり、「中身」ではなく「形式」あるいは「ルール」が同じなのです。その「形式」に従って議論し、自分の立場を表明することができるようになることが目的とされます。では、さまざまな意見を共通の「型」に従って表現することには、どのような利点があるのでしょうか?

 さまざまな意見が、さまざまな形式で表明される場合、それに接する人は、その内容だけでなく、それがどのように表現されているかという形式も理解しなければなりません。もしその形式が自分にとってなじみのないものであれば、内容を理解することはより困難になります。たとえば、官僚作文と揶揄されることも多いお役所の文章などは、その独特の表現に慣れ、文章が本当に言いたいことを理解するまでには相当骨が折れます(誤解を招かない表現にすると複雑になるということや、あるいはわざとわかりにくく書いている、ということもあるのかもしれませんが)。

 もしそうした意見が、誰もが知っていて使いこなすことのできる共通の「型」に従って表現されていたらどうでしょうか。その「型」を知っている人にとっては、どの部分がどのような役割をしているか、そしてその「型」に従って述べられている主張は何かということは、意見の内容がどうであれ、かなりわかりやすくなるはずです。

 その場合、問題となるのは「型」を知っている人、身につけている人をどのように増やせばいいか、ということです。多くの人が共通理解として「型」を身につけていれば、意見を表明する時にも、その意見を理解する時にも、その「型」を使うことになります。

 結果としてそれは多様な意見を理解し、時には同意し、時には反論するような健全な意見表明の場を生み出すことになるでしょう。そのような意見表明を行なうための能力を持った人々を「市民」と呼ぶことができるでしょう。

 そうした討議の場は民主主義的な社会にとって不可欠です。問題はこのような「型」を身につけた人をどうやって増やすのか、ということです。その解決策として、フランスは哲学教育を行なっているのです。

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