なぜ、平等であることが大切なの? 『平等ってなんだろう? あなたと考えたい身近な社会の不平等』
記事:平凡社
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――平等ってみんなが同じ、みんないっしょってこと?
「平等が大切」「平等じゃなければいけない」などと言われると、たしかに「それって、どういう意味なの?」と聞きたくなることがありますよね。人間は一人ひとり個性もちがうし、能力もちがいますから。好きなことも、やりたいと思うことも、なにを幸せと感じるかも、まったく同じということはありません。これほどちがう人がたくさん集まれば、人と人の関係もまた「完全に平等」であることなど不可能だ、と考えるのも自然なことでしょう。
でも、平等は「完全に同じ」という意味ではありません。「男性と女性は平等な権利をもつ」とか、「お金持ちも貧乏な人も平等に税金を払うべき」などと言われるときの平等は、大きなちがいを前提にしながらも、なにかの意味では同じであることを強調しています。
この「なにかの意味で」の部分は、人によって、またそのときどきの話の文脈によってもちがいます。
では逆に人はどんなとき、「これは平等じゃないからマズい」と感じるのでしょう? たとえば、あなたがこれからどこかの学校の入学試験を受けるとして、その評価や判定の仕組みが平等ではないと知ったら、どう思いますか?
――試験やテストが平等じゃなかったら、さすがにイヤだなあ。
同じ学校の入学試験なのに、たとえば隣の受験生と試験の問題がまるでちがったり、採点基準が別だったりしたら、誰でも怒りますよね。もしも、その学校に入るための学力が明らかに劣っているということなら、仕方がないとあきらめることができるかもしれない。でも、それとは関係のないこと、たとえば男女のちがいとか、身長や体重とか、親の学歴とかで判断されたら、とても納得できません。そういったちがいは、自分ではどうしようもない、コントロールできないものですからね。そういう「自分ではコントロールできないちがい」によって有利になったり、不利になったりするとき、平等という考え方が重要になってきます。
「入学するのにふさわしい人かどうか」。この判断と直接には関係のないちがいによって、差別的に扱ってはいけない。これは、「形式的な機会の平等」とも呼ばれている、とても基本的な考え方です。入学試験のようなものに関して、「不平等でもいいよ」と言う人はあまりいないでしょう。
では、この社会ではいつも「形式的な機会の平等」がしっかりと保証されているかと言えば、そうともかぎりません。平等に行われているはずの試験が実はこっそりと歪められているという話は、ときどき聞きますね。
2018年に、東京医科大学で10年以上にもわたって不正な点数の操作が行われていたというニュースは大きく伝えられたので、知っている人もいるかもしれません。この大学の入学試験では、男子の受験生に10点から20点も加算し、一切点数を加えない女子の受験生にくらべて有利に扱うことが、まるで当たり前のように行われていました。これは、医師になりたいという志をもった受験生を、その能力と関係のない「女性である」というだけのことで差別したわけですから、もちろん許されることではありません。
では、こういう明らかにズルいとわかるような不正がなければ入学試験は平等かというと、必ずしもそうとも言えないのです。
――採点や評価はちゃんとしていても、平等ではないことがあるってこと?
たとえば、同じ能力をもち、それを活かそうとする同じ意欲があるなら、等しいチャンスを与えられるべきだという考え方があります。
これは、もしもあなたの家が貧しくて学費を払えず、自分に能力や意欲はあると思うのだけれども、最初から進学をあきらめざるをえないと想像してみたら、理解できるのではないでしょうか。入試自体には問題がないけれども、高い学費というハードルがあるなら、その学校は誰に対しても平等に開かれているとは言えないかもしれない。あるいは、有名な塾に通わないと解けないような問題ばかりが出題される入学試験は、塾に通わせるお金のない家に生まれた子どもにとって、とても平等に扱われているとは言えないものになってしまう。
日本では最近、大学の授業料がかなり高くなっています。私立大学では年間100万円以上、医歯学系の大学では200万円以上かかることもめずらしくありません。アメリカの私立大学などでも、あまりにも高額な授業料がよく問題になっています。力とやる気のある学生に教育の機会を与えるための一つの制度として、奨学金というものがあります。これはお金のない学生に学ぶための費用を提供したり(給付型)、有利な条件で貸したり(貸与型)するという制度です。しかし、給付型の奨学金が十分でないために、大学を卒業した時点で膨大な借金を背負ってしまう人が多いと問題になっているのです。
――能力とやる気ではなく、お金をもっているかどうかで進路が決まってしまうの?
残念ですが、そういうところが多分にあります。しかも、それだけではありません。その「能力とやる気」についても、平等という観点から見ると実は大きな問題があるのです。
よく知られているのは、どのような家庭に育つかによって、努力する、がんばろうとする気持ちや学習態度にちがいが出てくるということです。「やる気」をそのまま測ることはできませんが、苅谷剛彦というオックスフォード大学で教育学を教えている学者が以前に調べたことがあります。この調査から子どもたちが自ら進んで勉強する習慣をもつことは、親の学歴と深く関連していることがわかりました。つまり、勉強する意欲というのは、本人だけでなんとかなるものではないと言えますね。(中略)
ところで、これは逆に私のほうから中学生のみなさんに聞いてみたいのですが、私が専門にしている政治学のような学問には、どんなイメージをもっていますか?
――よく知らないからなあ。真面目な感じはするけど、あまり楽しくはなさそう。
なんとなく灰色がかった、私みたいなおじさんばかりが何か小難しい言葉を使って話しているようなイメージかもしれませんね。同じようなことは、ほかにも政治家とか、法律家といった職業の世界にも言えるでしょう。
たとえば今の女子中学生にとって、自分が政治家になって国会で議論したり、大企業のトップとして経営判断を下している姿というのは、なかなかポジティブにはイメージしにくいかもしれません。日本の国会にはスーツを着たおじさんばかりが目立つし、女性が政治家になるには、そういうオヤジたちとうまく付き合えないといけないのかなと感じてしまう人もいるでしょう。
でも、女性の社会進出が進んでいる国においては、かなりちがうはずです。というのも、現実に政治家として成功したり、経営者として活躍している魅力的な女性が、実際にたくさんいるからです。「私もあんなふうになりたい」と思える、ロールモデルになるような人がたくさんいれば、職業のイメージもおのずと変わってくる。
なにが言いたいかというと、あなたは政治家や企業経営者よりも看護師や教師が自分にぴったりだと思い、それが自分の自由な意思だと思っているかもしれない。けれども、そういう将来への希望や見通し自体が、すでに社会の不平等から大きく影響を受けているのかもしれないと考えてみてほしい。自分が生まれた家庭の経済事情、生まれた場所、性別などによって、将来なりたい職業、どんな人生を生きたいかという希望が狭められているということはないでしょうか?
――たしかに、あまり大きな夢は抱いていないかも……。
なるべく大きな夢をもちなさい、という話ではもちろんありませんよ。
目の前にある実現が可能そうな選択肢だけに合わせて、最初から自分の希望や目標を狭めてしまうことは「適応的選好形成」と呼ばれます。それがあまりに行き過ぎるのは、よい状態とは言えません。日本でいえば、本当は能力がある女性がそれを発揮しなかったり、貧しいという理由だけで多くの才能が埋もれていたりする。そうだとすれば、その人たちだけではなく、社会にとっても大きな損失でしょう。
アメリカの哲学者でジョン・ロールズ(1921~2002)という人がいます。この人は1971年に『正義論』という本を刊行して、人間と社会にとって、平等な関係がひじょうに重要な意味をもっていると主張しました。平等を考えるとき、これからも何度か名前が出てくる人なので、ぜひ覚えておいてください。
ロールズは、一人ひとりの人生において、どんな機会が目の前に開かれているかという「生の展望(ライフ・プロスペクト)」における平等こそが大切であると説きました。飢えないとか、貧困にならないということだけではなく、「どのくらい将来に可能性があるか」も大事だと考えたのです。
あなたが自分の将来をどう見ているか、という問いかけはもちろん個人的なものですが、同時に社会的なものでもあると言えるでしょう。なにかの理由によって、あなただけが最初から多くをあきらめて将来に暗い展望しか描けていないとしたら、そこには大きな不平等があるのかもしれない、ということです。(中略)
貧富の差が広がると、貧しい人たちは若いときから自尊心をもてなくなることが多い。自尊心というのは、「自分には生きている価値がある」「自分がやろうとしていることは意味がある」と感じられる感覚のことで、人が生きていくうえでとても大切な感覚です。それがないと、なかには自分を傷つけたり、社会に対して敵意を抱くような人も出てくるでしょう。だから、貧富の差があまりに大きなところでは治安も悪くなるでしょうし、日常生活もなんとなくギスギスした雰囲気になってくる。不平等な社会に暮らすことはストレスが大きく、人々を不健康にするという研究結果もあります。
さらに不平等が広がると、お金持ちと貧しい人は、まったく別のところで暮らすようになり、お互いの存在がだんだん見えなくなります。アメリカなどでは、実際に富裕層が自分たちだけの街をつくり、住民以外の敷地内への出入りを制限する「ゲーテッドコミュニティ」がすでにたくさんあります。日本でもそういう街がつくられはじめています。たとえば、通行許可証がなければ宅配業者もこのゲートを通って街に入ることが許されない。こうなってくると、国のなかで人と人を結びつけているさまざまな制度を維持することも、だんだん難しくなるでしょうね。ある程度の平等がなければ、社会をひとつにまとめていくこともできなくなってしまうかもしれません。
このように不平等には、いくつものデメリットがあります。
――でも、正直言って「平等な社会」と言われても、それほどよいイメージがないんだよなあ。
もしかしたら、みんなが等しく貧しくなるようなイメージがあるのかもしれませんね。たしかに、ただ「同じであること」を目指すのであれば、一番簡単なのは「下に合わせること」です。もっとも貧しい人、もっとも不幸な人、もっとも恵まれていない人に合わせてみんなのレベルを下げる。そうすれば平等を達成できるという話です。でも、そんなことをしても、誰もが望まない結果になるだけです。
世の中には、「あったほうがよい不平等」があります。ここではちょっと極端な例だけをお話ししますが、たとえばあなたが脳の病気にかかったとして、どんなお医者さんにかかりたいですか?
――評判のいい、スゴ腕の外科医!
そう思いますよね。平等が大切だからという理由で、くじ引きで選ばれたそこらへんの誰かが担当しますと言われて喜ぶ人はいない。だから、スゴ腕の人気医師がたくさん報酬をもらうのは、誰もがある程度は認めるのです。ごく簡単に言うなら、長期的にみんなの役に立つなら、不平等もあったほうがよい。
より豊かで安定した社会を築くためには、どんな平等、どんな不平等があったほうがよいのだろう? この本のなかで、これからいっしょに考えていきましょう。
(『平等ってなんだろう? あなたと考えたい身近な社会の不平等』1章より一部抜粋)