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ソクラテスは若者を堕落させたのか? ――『ソクラテスと若者たち』が描く哲学者の光と影・前編

記事:春秋社

ジャック=フィリップ=ジョセフ・ド・サン・カンタン「ソクラテスの死」(1762年)
ジャック=フィリップ=ジョセフ・ド・サン・カンタン「ソクラテスの死」(1762年)

ソクラテスの罪状

 前三九九年、哲学者ソクラテスは告訴され、アテナイ市民による民衆裁判の結果、死刑判決を受け、友人たちが見守る中、毒杯を仰いであの世に旅立ちます。本書の狙いは、ソクラテスの罪状とされた二点、すなわち、(1)若者を堕落させている (2)祖国が祀る神々を敬わず何か新奇な霊のごときものを信仰している、のうちの第一の点について、ソクラテスと親交のあった三人の若者たちを例にとって検証することにあります。その三人とは、クレイトポン、アルキビアデス、アリスティッポスです。勿論、「何か新奇な霊のごときもの」すなわち「ソクラテスのダイモニオン」と呼ばれるもの――プラトンが伝えるソクラテス自身の説明によれば、それはソクラテスが何か間違ったことをしそうになると事前に警報を発して押しとどめたり、あるいは間違いをしてしまった後に事後的に合図を送ってやり直させる存在なのですが――と関係する第二の点も重要であり、それはまた今回取り上げる第一の点とも深い所で繋がっているのですが、これはこれで大問題なので、稿を改めて論じることにしたいと思います。

 さて、本書では、本論に入る前に、登場する三人のプロフィルがスケッチされますが、これは各章の紹介の所で併せて御紹介することとして、早速、第1章から見ることにしましょう。

それから? ――『クレイトポン』と「その先」への問い

 第1章は5つの節から成っていますが、その全体を通して私が試みているのは、「クレイトポンの謎」と称せられるものを解く、もしくは解きほぐすことです。実は、「謎」とされるものにもいろいろ有り、この作品がその極端な短さにもかかわらず、意外な奥行きと複雑さを秘めていることが知られます。その謎としては、まず、この作品の中でソクラテスの出番は最初にクレイトポンに話しかける場面だけであり、その後は最後までクレイトポンの独演会で、しかもソクラテスはクレイトポンに攻め立てられっぱなしという異例の展開になっていることが挙げられます。

 クレイトポンはソクラテスの「徳の勧め」に感激し、徳を身につけることを切望しているのですが、ソクラテスは「その先」、つまり、どうすれば実際に徳を身につけることができるのか、具体的なことはサッパリ教えてくれないと批判します。そしてソクラテスはそれに答えること無く、沈黙したきりで作品は終ります。このソクラテスの沈黙に関しては、クレイトポンの批判があまりにも鋭いので、ソクラテスは答えることが出来なかったという見方から、逆に、抑々ソクラテスから教えてもらおうとするクレイトポンの安易な姿勢が全くの無理解を示すものに他ならず、ソクラテスとしては馬鹿馬鹿しくて答えようが無かった、あるいは答える必要性を認めなかったのだという解釈まで、様々な解釈が有り、今なお論争が続いています。

 またこの例外的な内容をもつ作品が、はたしてプラトンの手になるものなのか、それとも他の誰かが書いたのか、という真偽問題も大きな謎です。これまた真作派、偽作派の両派が鎬(しのぎ)を削っています。ソクラテスの沈黙の理由について説明するのは推測になるので難しいと思われますが、少なくともクレイトポンの要求は正当であると私は考えています。またこの作品は、プラトン以外の同時代もしくは同世代の他の誰かによって書かれたものと推測しています。というのも、この作品に一種の切迫感と不穏さを与えている原因は、途方に暮れているクレイトポンがソフィストのトラシュマコスの名をちらつかせ、もしソクラテスが教えてくれないなら、あるいは徳を賞賛するだけで実際に教えることはできないのなら、トラシュマコスに弟子入りすると脅しめいたことをいっていることにありますが、《トラシュマコスがどういう思想をもっている人かは、全くのブラックボックスのままだからです》

 ところが、この本を書くまでの私も含め、皆、あたかもトラシュマコスがどういう思想の持ち主か、知っているつもりで読んでしまっている、すなわち、《読み込んでしまっているのです》。では、一体どこから読み込んでしまっているのでしょうか、――それはプラトンの『国家』の第1巻からです。そこでトラシュマコスは、ソクラテス相手に「正義とは強者すなわち支配者の利益に他ならない」との有名な主張をしているのです。そしてこの予備知識を持って『クレイトポン』を読む読者は、まるでトラシュマコスの思想を知っているつもりで、クレイトポンが突きつける、〈ソクラテスか、トラシュマコスか〉という二択を前にして緊張するのです。以上から、私は、この作品は『国家』の第1巻を読んだ人が、それを踏まえて書き、さらにそれを読んだプラトンがクレイトポンの問題提起の重要性を認めて、現在我々が手にしている『国家』の第2巻以降を書いたのではないかと推測しています。

 なお、本章の最後では、クレイトポンが現実政治の中でどのような行動をとったか、その生の軌跡を辿っていますので、併せてお読み頂き、そのロゴス(理論)とエルゴン(実践)の両面から、この人物についての理解を深めて頂ければ幸いです。

哲学と政治の間(はざま)で――アルキビアデスと引き裂かれた自己

 次に登場するのは,本書の主役とも言うべき稀代の風雲児にして問題児のアルキビアデスです。本書の第2章は六節から成りますが、前編ではその前半の三つの節を取り上げ、残り三節は後編で異端児アリスティッポスと一緒に扱うことにしたいと思います。

 さて、本書の冒頭に置いた「本書に登場する若者たち」にも書いたのですが、アルキビアデスはエリート中のエリートであるとともに、類い稀なイケメンぶりとその傑出した弁舌に軍略の才をもって人気を博し、若くしてアテナイの指導者の一人となります。その弁論の巧みさは、史家のトゥキュディデスの報告(本書第2章第1節で紹介)を見れば一目瞭然ですが、問題はその人格にあったようです。というのも、彼はその弁舌でアテナイ民衆のシケリア(現シシリー島)遠征熱を煽り、政敵のニキアスとともに三人の指揮官の一人に選ばれますが、遠征に出発する直前に起きたヘルメス像破壊と不敬虔な振舞の責任を問われ、何と遠征途上で召喚命令を受けるに至ります。ところがアルキビアデスは途中で脱走、あろうことか宿敵ラケダイモン(スパルタ)に姿を現します。そして、ここでもその巧みな弁舌で疑念を払拭してラケダイモン勢を丸め込むことに成功、おまけにアテナイ攻略の秘策まで指南します。

 その後、小アジアで反アテナイ工作に従事しますが、その裏ではペルシアの総督ティッサペルネスとも好誼を結びます。そしてアギス王をはじめとするラケダイモンの指導者たちが自分に不信感と敵意を抱いているのを察知すると,今度はサモス島の有力者たちに働きかけ、アテナイ海軍を率いることに成功、再び敵となったラケダイモン軍を海戦で撃破します。実は本の中では書かなかったのですが、後のプルタルコス(紀元1~2世紀)が伝えるところによれば、アギス王の不興を買った原因は,王の不在中にお妃とアルキビアデスが深い関係になり、お妃は妊娠・出産、どうやらその子はアルキビアデスの子らしいという、不倫スキャンダルにあるようです。田舎育ち(?)の王妃が、花の都から来た絶世の美男子によろめいたとしても無理はないかも知れませんが……。

 このように節操に欠けるアルキビアデスではありますが、どういうわけか、プラトンは複数の作品の中でアルキビアデスとソクラテスを一緒に登場させています。本書第2章第2節では、権力欲に燃えるアルキビアデス青年に対してソクラテスが自己認識の重要性を説く『(第一)アルキビアデス』を詳しく取り上げた上で、『第二アルキビアデス』と『プロタゴラス』に登場するアルキビアデスにも光を当てます。そして第3節で取り上げるのが、ソクラテスとアルキビアデスの関係についてプラトンが取り上げた著作の中でも、おそらく一番有名だと思われる作品、すなわち『饗宴』です。

 『饗宴』については、既に多くの翻訳と研究がなされていますが、ここで私が新たに強調している点が二つあります。第一は、アルキビアデスの告白の中にある「二人の間で約束されたこと」という表現を、『アルキビアデス』の最後の場面でアルキビアデスがソクラテス相手に立てた正義探求の誓いと結びつけて解釈している点です。もう一点は、ソクラテスが語るディオティマのエロース論で語られるエロースをアルキビアデスと重ねて解釈していることです。以上の二点については、読者の皆さんの忌憚の無い御批評をいただければと思っております。大分、長くなりましたので、前編は一先ずこれにて終らせていただくことと致します。(後編につづく)

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