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分析哲学的なスタイルでニーチェを解釈する――21世紀のニーチェ研究最前線(前編)

記事:春秋社

ニーチェの肖像 1875年頃
ニーチェの肖像 1875年頃

ニーチェ研究の最前線へ

 19世紀ドイツの哲学者ニーチェ(1844〜1900年)。哲学者としては随一の知名度と人気を誇りながらも、難解で型破りな思想の持ち主。本書はそんないまいちつかみどころのない哲学者に関する研究書です。

 原著者のブライアン・ライターは、現在世界で最も影響力のあるニーチェ研究者といえます(ちなみに法哲学の分野でも国際的に著名な人物です)。原著の第一版は2002年に刊行されたのですが、それ以来きわめて多くのニーチェ研究文献で参照されており、まちがいなくここ数十年で世界的に最も重要なニーチェ研究書と呼べるほどです。ニーチェ哲学、とくにその倫理学や『道徳の系譜学』を研究するためには、避けては通れない必読書と評価できるでしょう。

 このように本書は第一級の研究書で、しかも大著ではあるのですが、対象読者層は専門家に限られません。細かい部分まで厳密に理解しながら批判的に読むためには少なくとも哲学科の学部2、3年生レベルの知識が必要でしょうが、一応もともとは入門書(Guidebook)として書かれているので、「ニーチェだったら著作や解説書の類いを多少読んだことがあるぞ」という方、あるいは「哲学は大学の教養でちょっとかじったくらいだな」という初学者の方でも議論の大筋の流れはつかめると思います。また、ありがたいことに、著者の中核的な主張や重要なポイントはところどころで繰り返し確認されるため、置いてきぼりにされずに読み進めることができます。

本書の二つの大きな特徴

 さて、本書の位置づけやターゲット層についての話はこの辺にして、その具体的な特徴の話題に移りましょう。まず大枠について述べておくと、本書の一番のテーマはニーチェの道徳哲学で、『道徳の系譜学』(以下『系譜学』と略します)などのテクストの読解を通じてその内実を明らかにするということが目指されています。とはいえ、ニーチェ研究書においてその倫理学や『系譜学』が主題的に論じられるのは珍しいことではないでしょう。それゆえ、ここでは、そうした題材という面ではなく、それとは別の面から特徴づけを与えたいと思います。解釈の手法・スタイルの面、そして解釈の実質的な内容の面という二つです。

 それぞれに深入りする前に、これらがどういうものかを簡単に見ておきましょう。第一に、ライターによる解釈の手法・スタイルには、分析哲学的という特徴があります。簡単にいえば、明晰な言葉遣いによる精密な論理展開が行われているというわけです。第二に、ライターのニーチェ解釈の内実についてですが、これは自然主義的だという点に最大の特徴があります。こちらのほうは後編で扱うことにしますが、予告的にちょっと述べておくと、哲学における自然主義というのは、神などの超自然的なものの存在を否定したり、哲学を科学と緊密に結びつけたりする立場を指します。

分析系のニーチェ研究とは

 では、分析哲学的なスタイルによるニーチェ解釈という面に目を向けましょう。まず注意しなければなりませんが、ここでの分析哲学は、言語哲学や科学哲学といったある特定の学問分野というよりは、クリアで厳密な議論を重視する流儀で行われている哲学のことを広く指しています。現在英語圏に限らず世界的に広まっている分析哲学という流派には、ライター自身がいうとおり、「明晰さ、精密さ、根拠への高い関心、議論の厳密さ」(p. ix)といった特長があり、ライターはこれにのっとってニーチェのさまざまなテクストにアプローチすることで、そこで展開されているロジックを解き明かし、それをクリアに再構成しようとしているのです。

 もう少し具体的にいうと、20世紀初頭に生まれ、現在まで広く深い発展をみせている分析哲学なる哲学的営為が蓄積してきた有用な「哲学上のカテゴリー分類や論証の膨大なレパートリー」などの道具立ても活用して、「ただの言い換え以上の言葉で彼〔ニーチェ〕の見解を明確化」するというのが、本書で用いられている基本的な解釈手法なのです(p. x)。そのため、本書は全体としてきわめてクリアな論述が続くのですが、とくにライターがニーチェによる道徳批判を解説する際(第3章・第4章)などには、このメソッドの長所がいかんなく発揮されているさまが見て取れるはずです。(なお、分析哲学といっても、本書では記号を使った論理式などが出てくるわけではないので、初学者でも過度に身構える必要はありません。あせらず丹念に論理を追いながら読めば、基本的にはきちんと議論の内容を理解できるでしょう。)

 ただ、これはライターが新たに編み出した方法論というわけではありません。哲学史上の人物、たとえばニーチェ以外にもプラトンやカントの研究に際してこうした広い意味で分析的なアプローチをとることはそれ以前から行われており、目覚ましい成果があげられてきました。そしてとくに近年、分析系のスタイルによる哲学史研究はますます勢いをつけており、隆盛の一途をたどっているという状況です。本書はこの潮流を代表するニーチェ研究書であり、読者はその意味で現代の最先端の哲学史研究を存分に堪能することができると思います。

 最後に、以上のような解釈手法に関して一つだけ強調しておきたいことがあります。分析哲学と聞くと歴史を軽視しているというイメージを抱く方もいらっしゃるかもしれません。しかし、哲学史研究において分析的な手法がとられているからといって、必ずしも歴史的な面が軽んじられているということになるわけではありません。少なくともこの本においては、むしろそうした歴史的側面は解釈に際してかなり重視されています。とくに第2章「知的遍歴と背景」では当時の時代背景やニーチェに大きな知的影響を与えた人物・ 思想(たとえばショーペンハウアーやドイツ唯物論)といった部分が詳述されており、ライターが自身の解釈をこうした思想史的な観点からも裏づけようとしていることがわかります。

 さあ、ではその肝心のライターの解釈、かつての私のニーチェ観を一変させてしまった彼の解釈というのは一体どのような内実のものなのでしょうか。読者の方がとくに気になるのはここのところだと思いますが、これについては次回に譲ります。引き続きどうぞお楽しみください。(後編につづく)

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