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ニーチェ「ツァラトゥストラ」 人生をもう一度の真意は

Friedrich Wilhelm Nietzsche(1844~1900)。ドイツの哲学者

大澤真幸が読む

 本書は、十年間山にこもっていたツァラトゥストラ(以下、Z)なる人物が、太陽に触発されて山を下り、人々に教えを授けるという体裁をとった哲学書。私はこの本に救われた。高校一年の夏にこの本と出会わなかったら、現在の自分はなかった。書影は、そのとき読んだ邦訳の文庫版。訳書は多いが、説教は全て寓話(ぐうわ)なので、初めて読む人には注が豊富なものほどよい。

 Zは何を説いたのか。中心には永劫(えいごう)回帰の思想がある。永劫回帰とは、人生に対して否定的な態度をとるニヒリズムを克服する知恵である。この種のニヒリズムを生み出しているのは、怨恨(ルサンチマン)である。怨恨は、起きてしまったことを受け入れられないと感じたときに発生する。

 どうしたら怨恨を克服できるのか。過去に遡(さかのぼ)って意欲することだ、とZは説く。まず、「そうであった」という過去の現実がある。これを、私は実は「そうであったことを欲したのだ」に置き換える。さすれば、まさに欲していたことが起きたことになるので、怨恨は出てこない。このとき、私は同じことが繰り返されることを欲するはずだし、死ぬときも、人生に「さあもう一度!」と言うだろう。

 これは巧みな処世訓だ。が、思想としてはまだ弱い。極端に理不尽な不幸に苦しんだ人、例えば強制収容所のユダヤ人に、その人生をもう一度、と意欲しなさいと言えるだろうか。

 実は、ここまでの永劫回帰の説明は暫定的なもので、Zの教えにはまだ先がある。結末近くで、Zは突然「徴(しるし)が来た」と叫ぶ。徴とはおそらく、永劫回帰の秘密を告げる鐘の音である。鐘は鳴っていないが、Zは徴は来たと感じる。

 私の解釈では、永劫回帰の語りがたい真実とは、現に起きたことを追認的に肯定することではなく、現に起きたことに反して決定的な出来事(徴が来た)はすでに起きたと想定し、これを反復することである。こういう態度にどんな意味があるのか。Zは語らない。答えは読者に委ねられる。=朝日新聞2021年12月4日掲載