『張赫宙日本語文学選集』――魯迅と並んだ〈世界的〉作家はいかに忘却され隠蔽されたのか?(南富鎭)
記事:作品社
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今はほとんど忘れられているが、張赫宙(ちょう・かくちゅう 1905-1997)は、かつては魯迅と相並ぶアジアを代表する作家と称された。朝鮮人として初めて日本文壇にデビューし、宗主国の言語であった日本語で植民地期朝鮮の悲惨な現実と多様な人間群像を、自然主義リアリズムで巧みに描き出した。
張赫宙のいくつかの作品は、当時としては珍しく、世界的な広がりを見せていたエスペラント語をはじめ、中国語やポーランド語やチェコ語などにも翻訳紹介された。そうした張の活躍は、第二次世界大戦前のグローバルな連帯の中にいた「弱小民族文学」の朝鮮代表として評価され、「世界文学」の代表格という名声と勢いさえあった。
第二次世界大戦の終結後、旧弱小民族はそれぞれ自前の近代国民国家を形成していくが、張赫宙は日本語で活躍したため、戦後社会に帰属先を失い、長い間、一方的に非難され、排除され、隠蔽され、忘却される道をたどることになる。
かつての弱小民族が自前の近代国民文学(いわゆる国文学)を創造していくなか、薄弱な自己同一性の対他的存在として、旧宗主国の言語と文学が想定される。韓国・朝鮮もそうした状況にあり、その対他的自我がいわゆる「親日文学」となる。清らかな新生「国文学」の裏の側面、その対他的自画像のもっとも象徴的なものが張赫宙文学であったと言える。張赫宙文学への非難、排除、隠蔽、忘却はこうした旧植民地国家の「近代文学」「国文学」の成立事情が深く介入しているように思われる。しかし表裏は常に一体である。魯迅への称賛と張赫宙への批判は同一現象で、それらが目指す目的と結果は同じである。
張赫宙には「魯迅とその他」という評論がある。魯迅の日本語訳は、多少「中国語的日本語や言ひ回しの稚拙」はあるにしても、「言語の調子」を的確に現わしていると称賛(?)した文章であるが、魯迅に対する複雑な対抗意識が垣間見られる文章である。
張赫宙の作品には一読してすぐに魯迅を連想する作品がいくつかある。魯迅「狂人日記」を連想する「狂女点描」がそれである。狂人、狂女の口を借りた現実批判の手法はほぼ類似している。もう一つ、「十六夜に」は魯迅「故郷」を連想させる。作品テーマや人物設定の類似性から、張赫宙が魯迅「故郷」を強く意識したのかもしれない。両作の印象的な冒頭部分を紹介しておこう。
きびしい寒さのなかを、二千里のはてから、別れて二十年にもなる故郷へ、私は帰った。
もう真冬の候であった。そのうえ故郷へ近づくにつれて、空模様はあやしくなり、冷い風がヒューヒュー音を立てて、船のなかまで吹きこんできた。苫のすき間から外をうかがうと、鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに横たわっていた。おぼえず寂寥の感が胸にこみあげた。
魯迅「故郷」竹内好訳、岩波文庫
一九二×年、八月二十日、この夕方、私は六七年ぶりに生まれ故郷の土地を踏んだ。私は自分の勤務地から汽車で、途中自動車に乗換へ、更に三四里馬車に揺られながら、烈日が西空に急傾斜した頃ほひ、この梅花村から一里程離れた峠下の村についたのだつた。
張赫宙「十六夜に」
近年、冷戦構造の崩壊とそれに続くポストモダニズムの隆盛があり、それに拍車をかけるように、グローバリゼーションという高度情報化社会の出現によって国民国家の旧来的な秩序は大きく攪乱され、液状化現象を起こしている。張赫宙文学への非難、排除、隠蔽、忘却の封印が解かれ始めたのはこうした時代的な要請が影響したかもしれない。
張赫宙の代表作「仁王洞時代」(『張赫宙日本語文学選集・仁王洞時代』の表題作)の冒頭は次のような封印された記憶の話から始まる。
私はなるだけ回想だとか追憶だとか言ふ風なことはしないことにしてゐる。過去をふりかえることは私には確に一つの大きな苦痛であるやうだ。
私がもし私の幼年時代のことをふと憶ひ出したとする。すると私は直ちに暗がりと魘されるやうな壓迫感とに、胸は狭心症にかかつたかのやうに苦しくなり、いつ果つやも知れんやうな嗚咽が咽喉へこみ上つて来て、私の眼には悲劇俳優のやうに涙滴が湧き上り頬を濡らすのだ。
張赫宙「仁王洞時代」
封じ込められた近代の「傷痕」の記憶の開示はグローバリゼーションと高度情報化社会時代を生きる「癒し」となる。近代の記憶をいつまでも歪めておくわけにはいかないのである。