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フランクル思想を「臨床哲学」の遺産と見立てるーー『フランクルの臨床哲学』(上)

記事:春秋社

アウシュヴィッツ(パブリックドメイン)
アウシュヴィッツ(パブリックドメイン)

フランクル思想を「臨床哲学」の遺産と見立てる

 ヴィクトール・エミール・フランクルは、20世紀初めに誕生し、その終わりに逝去した。その意味で彼の思想は、20世紀という時代を色濃く反映している。つまり、彼自身が身をもってこの激動の歴史を生き抜いた中で、練り上げられていったのである。精神科医としての様々の患者との交わりの中で、生きる意味も死ぬ意味も剥奪されるユダヤ人強制収容所という未曽有の状況を生き抜く中で、彼は歴史から何を問われ、どのように応答しようとしたのか。あるいは、翻っていえば、歴史は、フランクルという稀有な人物の生きざまと著作を通じて、何を語ろうとしたのだろうか。

 フランクルは、日本では、『夜と霧』という邦題で出版された強制収容所の体験記録の著者として知られ、また、「ロゴテラピー=実存分析」という、生きる意味を見失った人が、自分で自らの生きる意味を再発見することを援助する活動を創始した人としても知られている。1960年代に読まれ始めるが、とりわけ1990年代以降の世情が生み出す不安とも呼応するように読み継がれてきた。災害などが訪れるたびに彼が注目されるのは、個々の苦境にある一人ひとりが、避けられぬ苦しみを受け入れる際に、生き方のうえで大きな示唆を与えてくれる何かがあるからである。医療や心理療法などの支援にあたる専門家が、「ロゴテラピー=実存分析」を学びたいと思うのも、従来の支援の行き詰まりを乗り越える何らかのヒントをそこに求めるからであろう。

 本書は、思想研究としてフランクルへの理解をさらに一歩進めると同時に、彼の思想を中心として21世紀に生きる私たちの根本問題をより広く深い視野から捉え直そうとするささやかな挑戦である。端的にいえば、彼の思想を、20世紀の時代精神と格闘した実践的な哲学の遺産の一つと見立て、それが冒頭で述べた、歴史に何を応答しようとしたのか、という未決の問いのただなかに置き直すということである。このことは、考察の視点を、必然的に、狭義の心理療法としてのロゴテラピーの理論枠から解放し、フランクルの哲学的著作そのものに立ち還って、その思想の意味を問い直すことを要請する。そして、同時代のさまざまな思想からの影響関係を視野に入れながら、同時に、今日の21世紀における私たちの在り様にどのような示唆を与える思想なのかを、現代の他の諸思想との対話を通じても明らかにするという困難な課題を背負うということになる。この課題を本書が十分に達成したかといえば忸怩たるものがあるが、それへ向けての第一歩を記したと考えてもらえればうれしい。思想研究を志す以上、処世訓や処方箋に矮小化させることなく、哲学的な考察を通じて、フランクル思想の歴史的な意味をより明瞭にしたいと願った。

 このことを考えるうえで、いくつかのポイントが浮き彫りにされてきた。第一に、彼が書名にも採用した「ホモ・パティエンス(受苦する人)」という人間理解が有していた、勝れて時代批判的な視点である。これは、近代以降称揚されてきた自律性・能動性を標榜する「ホモ・サピエンス(知性の人)」に対置され、身体によって世界と交わり、世界から影響を「被る」受動性・受苦性を人間存在の真相と見る。彼の思想に内在するこの視点をより明瞭にするために、著者は、それが日本において哲学者の中村雄二郎が提唱した「臨床(パトス)の知」を標榜するものとして、そしてその意味で木村敏や鷲田清一が使用していた「臨床哲学」という言葉を重ねて、敢えてその貴重な遺産の一つと見立てたわけである。〈意味〉を模索し、格闘し、自己を証ししようとする人の根源的な姿は、同時に〈受苦〉し、生成する人の姿でもある。そういう人の在り様を支え合う行為の質は、「〈意味による生成〉への奉仕」(ロゴテラペイア)と語り直せる。

 第二に、鷲田が展開する臨床哲学の基調にもあった「絶対的他性」を無条件で迎え入れる歓待(ホスピタリティー)の思想との対話の中で、フランクルの「自己超越の思想」の意味を再確認したことである。ポール・リクールの思索が重要な導き手となり、捕虜収容所体験をもつユダヤ人思想家エマニュエル・レヴィナスの「絶対他者性の思想」との対話が可能になった。この対話によって、究極的には、〈存在の謎〉への向き合い方への典型的な二つの視角が浮き彫りになり、それらを両睨みすることが、21世紀において「相対主義を回避した世界開放的な複数主義」を実現できる《倫理》への道であることを示した。

 そして第三に、〈アウシュヴィッツ〉をめぐる現代思想との対話である。「アウシュヴィッツ以後に詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)、「アウシュヴィッツは帰って来なかった者たちにしか証言できない」(アガンベン)といった言説に対して、「アウシュヴィッツにも拘らず」生への無条件の肯定を主張してきたフランクルの哲学はどのように応答できるのか、について模索したことである。また以上の考察を踏まえて、リクールの物語論を媒介にして、21世紀の私たちが、ホロコーストという歴史的出来事に対してどのように向き合えばよいのか、という問いについて格闘したプロセスを示したことである。

 以上の3つのポイントは相互に絡み合い、フランクルの思想の臨床哲学性を浮き彫りにしていく。そしてそれは同時に、ホモ・パティエンスの人間形成論とニヒリズムを生き抜く《教育の倫理》の所在を模索することでもあった。(つづく)

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