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なぜ、ホモ・パティエンスの人間形成論なのか?ーー『フランクルの臨床哲学』(下)

記事:春秋社

フランクルの臨床哲学本体
フランクルの臨床哲学本体

なぜ、ホモ・パティエンスの人間形成論なのか?

 精神科医で哲学者でもあったフランクルの思想が、どうして人間形成論や教育と結びつくのか。読者は、不思議に思われるかもしれない。著者の専門領域が教育哲学であることから、そのような特殊な関心で展開されているのだと思われる向きもあろう。しかし、本書では、それをすべての人が関心を寄せるべきものとして示したかった。

 人は誰しも、不可思議にもこの世に生を授かり、子どもであるということからその生を始め、他者からの存在の世話を受け、同時に自分の存在が他者に影響を与え、相互に形成し合い、やがて死に至る。この当たり前の事実の中にあるダイナミズムは、今日、哲学が等閑視せずに考察の出発点にこそ置くべきことなのである。なぜなら、人間一般をスタティックに合理的に理解しようとする哲学はドグマと化す(《存在の謎》を隠蔽する)だけで、かえってニヒリズムに加担する結果になりかねないからである。フランクル思想そのものは、人格の働きを、その唯一無二性と生成の相において力動的にとらえている。これは、その臨床哲学性を示す根本契機であり、人間形成論の潜在を示すものである。だからこそ、フランクル思想は、人間形成や教育という主題により自覚的になってこそ、その勝れた特徴が-人類の歴史により貢献できるものとして-浮かび上がるのではないかと考えたのだ。

 また、逆から言えば、著者は、これまでの教育学や人間形成論が陥った視野狭窄を、フランクルの臨床哲学が転換させる力をもっていると見立てて、その方途を試行錯誤しながら考えてきたともいえる。このことは、一般の読者には少し説明が必要になる。

 例えば、一般的に教育学は、ほぼ教員養成のため(how to teach)にだけに必要な学問である、という認識が流布しているかもしれない。事実、この学問が近代化に必要な「人材養成」のための目的合理的な「教育」の構築に深く関わってきたという歴史がある。もともと、私たちが「教育」と呼ぶものは、大方が近代による構成物であり、「大人」にするということ、つまり「未成熟状態からの脱出」(=啓蒙)を目的にしてきた。本書の文脈でいえば、それは、ホモ・サピエンス(理性の人)の人間形成や教育である。そして、それは次第に目的合理主義へと矮小化されていったのである。けれども、専門分化した教育諸科学の中でも、例外的にこれに問いを投げかけてきた主たる領域が、教育哲学や教育思想史なのであり、そこでは近代の行き詰まり(啓蒙の野蛮化)を超えるための道を模索する研究が積み重ねられてきた。ホモ・パティエンスをホモ・サピエンスに対置することによって、《意味/受苦》から近代への反省の視座をもつフランクルの思想は、これらの研究と共鳴し、さらに本質的な視点を提供するものとして大いに注目されてよい、と思ったわけである。

 本書のホモ・パティエンスの人間形成論には明確な輪郭があるわけではない。しかし、フランクル思想を臨床哲学とみることで、その風景が浮かび上がってくる。それは、フランクルの言葉をベースにして、また、他の思想家との対話を手掛かりにして、意味の声を聴き、そしてそれに何とか応答するという、形にならない寄る辺なき営みを、近代教育の啓蒙性に回収せずに、言葉にする試みである。その試みの一つの指針が、「相対主義を回避した世界開放的な複数主義」、もう一つの指針が、「受苦」「弱さ」「寄る辺なさ」といった「力とは異なる方向性」であった。したがって、この試みによって自覚にもたらされようとする《教育の倫理》が何のためかといえば、それは「ニヒリズムの克服のため」と言うよりも、むしろ「ニヒリズムを生き抜くため」と表現する方がふさわしい。

 では、どうしてそのように言えるのか。以上のことは、あくまで現代が、実体化できるような「神」が死せる時代であることを、徹頭徹尾、受け容れたうえで、なおかつ、受苦する人間に内在する宗教性・超越性(ホモ・パティエンスとしてのホモ・レリギオースス)を描こうとする試みに他ならないからである。私たちは今日、果たして、ニヒリズムを克服した風景を描くことができるであろうか。それは、もはや、「神」の復権によっても、ヒューマニズム(人間中心主義)によっても描き得ない。この風景描写を、既存の宗教的語りにも、啓蒙語りにも、回収できない時代に私たちは生きているのである。

 しかし、本書では、自己の《存在の謎》に対して応答すること(自己超越)によって、そのつど自己が自己を証ししようとする運動(フランクル)、そして眼前の他者への〈無限〉の《謎》めいた責任への応答として自己を捧げようとする運動(レヴィナス)は、両者とも、人間形成の動性のどこかで重なり合う二つの側面であることを強調した。それらは、まさに不確実な状況にあって、合理性の砦へ逃げ込むのではなく、身を賭して状況に応答していく誠実さと勇気、そして誤っても赦し合い、約束し、信頼を形成していくという慎み深さと忍耐を養うことへと私たちを導くと考えたからである。(おわり)

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