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『ビデオランド』とレンタルビデオをめぐるトークランド 映画と観客はどう変容してきたのか?(生井英考×竹内伸治)前編

記事:作品社

『ビデオランド レンタルビデオともうひとつのアメリカ映画史』(ダニエル・ハーバート著 生井英考、丸山雄生、渡部宏樹訳)
『ビデオランド レンタルビデオともうひとつのアメリカ映画史』(ダニエル・ハーバート著 生井英考、丸山雄生、渡部宏樹訳)

日本のレンタルビデオ業界のはじまり

生井 中年以上の世代ならみなさん覚えていると思いますが、1970年代の半ばにベータとVHSという家庭用のビデオテープの規格が発売され、80年代にテープデッキがぐっと安くなって爆発的に普及し、90年代を経てゼロ年代の初めまで、本当に社会全体に広まっていました。今回紹介する『ビデオランド』は、このおよそ30年間ぐらいの「ビデオテープ」の隆盛期を中心に、それが「レンタルビデオ」という流通形態で世の中に普及した時代の経験を、アメリカの映画学の専門家がとても面白く論じた本です。

 今日はこの本の内容をめぐってのトークイベントですが、アメリカの話だけでなく、同時代の日本のことと比較したり、日米の違いや共通点にも触れながら話を進めていきたいと思います。ゲストとしてお招きした竹内さんは長年、映画宣伝プロデューサーとして業界の第一線で仕事をなさってきて、まさに80年代末から90年代、ゼロ年代で日本のレンタルビデオのビジネスが絶頂期を迎えたころのことをよくご存じですから、『ビデオランド』の感想もふくめていろいろうかがいたいと思います。

 まず、ご自身のことですが、竹内さんが映画配給会社のアスミック・エースに入社されたのは1980年代の終わりですね。

当時使用されていたビデオテープとデッキ
当時使用されていたビデオテープとデッキ

竹内 そうです。レンタルビデオ時代、いわゆるコンテンツビジネスが盛んになって来たころ、いろいろな産業が映画業界に入ってきて、その中に商事会社もありました。アスミックの親会社は住友商事と講談社と制作会社のアスクで、最初は電子出版社として登場しました。その旧アスミックと、日本ヘラルド映画系統のヘラルド・エースから角川書店に親会社が変わったエース ピクチャーズが合併してできたのが、アスミック・エースエンタテインメントです。私が所属した1988年には、まだアスミックは映画配給をしていませんでした。まさに初期のレンタルビデオビジネスの申し子として登場した会社の一つだったわけです。

 80年代、レンタルビデオがいいビジネスになるということで、日本のバブル期にも重なり、いままで映画業界にいなかったいろいろな会社が、レンタルビデオというビジネスを通して業界になだれ込んできました。その一つがアスミックでした。

生井 ちょうど同じころ、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)やゲオのようなレンタル店のチェーンや、後に映画配給に乗り出すギャガといった会社も続々と登場しましたよね。

竹内 レンタル店は多くがレンタルレコード業からビデオレンタル業に入ってきました。それに対してギャガは、外国の映画の権利を買って、それを日本のレコード会社やコンテンツホルダーに売る会社でした。まさにレンタルビデオビジネスを核にした映画ビジネスのために作られた会社がギャガだったわけです。

 そうなってくると、今度は権利を行使する人たちも必要になり、それで小さな配給会社やミニシアターがたくさん輩出します。

 また、日本の映画製作の9割ほどを占めている「製作委員会方式」というのがあります。

生井 昔のように松竹や東宝などの映画会社が企画から製作まで単独でおこなうのではなく、複数の業種が組んで映画を製作するという日本独自の方式ですね。

竹内 そうです。邦画の大きな製作配給会社と、テレビ局、出版社、芸能事務所などが組んで1本の映画を製作して供給するシステムです。やり方自体は以前からありましたが、80年代のビデオビジネスの普及で一気に定着しました。このあたりが日本のレンタルビデオビジネスの発展がアメリカと少し違うところで、まさにガラパゴスとして進化しました。

最低でも2000本から8000本

生井 異業種が参入するというのは、それだけビデオのビジネスが商機に富んだ分野になったということですね。以前、竹内さんにうかがった話ですが、そのころ日本未公開作品や、ビデオリリースが初めてといった知名度のほとんどない映画でも、パッケージ・ビデオ数千本の規模でリリースされるのが珍しくなかったとか。

竹内 もちろん映画によってはまったく売れないものもありましたが、レンタルビデオで借りられる作品ですと、最低2000本から8000本、へたすると1万本を超えるものもありました。

あるレンタルビデオ店の店内(Photo by Corpse Reviver/ CC BY 3.0 )
あるレンタルビデオ店の店内(Photo by Corpse Reviver/ CC BY 3.0 )

生井 レンタルビデオ店に行くと「今月の新作!」なんて書いたポップが下がって、ずらりとタイトルが書いてあったり、来月の予告が出てたり。映画館とは明らかに違うし、書店とも違う、レンタルビデオ店ならではの雰囲気があったころですね。

竹内 一番象徴的なのは昭和天皇崩御の時です。テレビ局が大喪の礼を中心とした特集番組しか放映しなかったので、レンタルショップの棚からすべてのビデオがなくなりました。

生井 天皇崩御でみんな「自粛」で外出をひかえるので、自宅で見るビデオを借りにどっと走ったと。まるでいまのコロナ禍での「巣ごもり消費」でビデオ配信が急伸したというのとそっくり(笑)。

竹内 それが最も象徴的な出来事でした。日本の映画を観る人たちにそのくらいレンタルビデオが定着し、ビジネスとしてパイが大きくなり、そのパイがさらにいろいろなビジネスに流れていった。

生井 製作委員会方式が定着したことで、映画づくりのコストが分散されて映画が作りやすくなったというのもビデオ・ビジネスのおかげなわけですね。

竹内 製作委員会方式によって様々な会社が出資し、そして二次使用としてレンタルビデオやテレビ放映という形でパイが大きくなっていきました。特に日本はバブル景気の真っ最中だったので、レンタルビデオもさらに隆盛して発展していった。そういう時代だったと思います。

「Vシネマ」の登場

生井 『ビデオランド』でも触れられていますが、歴史的に見ると、もともと映画産業はビデオの登場には無関心だったし、むしろ映画館の興行収入に影響するというのでレンタルビデオを嫌っていた。しかし逆にビデオの配給業者のほうは、劇場ではとっくにお蔵入りになっていたような作品を安く買い付けて、それをビデオ化して大量にリリースする。それが急拡大するビデオ消費の市場にマッチしてゆく。こういうアメリカの状況は、日本でも同じような感じだったんでしょうか。

竹内 そうです。日本の邦画メジャーも最初は嫌っていました。ただ、どこも最初からビデオへの関心は高かったと思います。どのように世の中に供給していけば、自社の優位性を保ったままビジネスできるか、とういうことに腐心していたわけです。各会社は大きなチェーン店にいいようにやられないように、自社のビデオの権利を確立しながらいかに商売にするかを考えて動いていました。

 たとえば東映は、自社の未公開映画をコンテンツとする「Vシネマ」というレーベルを作りました。いまは「Vシネ」は普通名詞みたいになりましたが、もとは日本製作のビデオストレート作品です。これなどはまさに東映というメジャーが、レンタルビデオに流すためだけに作って商売として成立させた例ですね。それで他の小さな会社もVシネマの真似をして、ヤクザものとかギャンブルものといったモティーフをレンタルビデオ専用の映画として作るようになりました。これもまさに日本のメジャー映画が、自社のスタッフやキャストを豊潤に持っている優位性を、レンタルビデオというビジネスに生かした例だと思います。

生井 レンタル店向けに作られた映画というのは、昔の映画館向けのとは違う、もう一つの映画配給網のための作品だということですね。『ビデオランド』の著者は、膨大な数にのぼったレンタルビデオ店の分布は、実はもう一つの映画配給網だったと喝破したわけですが、確かに日本でも、かつて都心から郊外に伸びる鉄道のどこの駅前にも東口と西口に一つずつ映画館があるなんてのが当たり前の時代がありました。それが映画産業の衰退でなくなってしまったけれど、代わりに同じようにレンタルビデオ店が出現した。

竹内 そういう時代、映画は2本立てや3本立てでした。当時の業界用語で「プログラムピクチャー」という言い方をします。

生井 メインの映画と抱き合わせになる併映作のことですね。

竹内 ところが製作委員会方式になると1本立て大作が主流となり、邦画の供給の仕方が変わってきます。レンタルビデオ用に作る映画がプログラムピクチャーのB番線、二番線、つまりかつての3本立ての2本目、3本目と同じ位置づけになっていったところがあるわけです。それらは劇場では公開されませんが、後にはVシネマ作品として人気が出て、逆に劇場でかかるということまで出てきました。

セルビデオとレンタルビデオ

生井 昔のビデオ、特に輸入モノのソフトは値段がものすごく高くて、1万円を超えるようなものも珍しくありませんでしたよね。そこへレンタル店が出てきたので、映画好きたちが飛びついたということだったんでしょうか。

竹内 逆だと思います。つまりレンタルビデオのほうがビジネスになるので、先にレンタルビデオを1万8000円とか1万8500円という価格設定にして、その半分くらいの値段で問屋に下ろすという形でした。つまり日本ではセルビデオの形態はあまり考えずに、レンタルビデオ中心に作った価格設定が1万8000円前後ということだったと思うんです。

生井 なるほど。業界の仕組みを作る中で先に利益とマージンを含んだ価格が設定され、それが市場価格として流通していったと。

竹内 そういうことだと思います。日本ではまずレンタルビデオのビジネスが確立されたので、その金額から始まっているわけです。

映画をコピーするようになった時代

生井 映画好きの中でも「狂」のつくような人たち、まあシネフィルとかオタクと言ってもいいし、ぼくもそういう一人だろうと思いますけれど、そういう人間に共通するのが「この映画はオレのもの、オレのために天が授けた映画だ」というようなヘンな特権意識なんですね(笑)。なので、かつて映画館でしか映画を観ることができない時代は、そういうシネフィルは自分でカメラを持ち込んで自前のスチル写真を撮ったりしていたし、ビデオが出てくるとそのソフトを買い漁ったりした。レコードと同じで、ビデオのコレクターですね。レーザーディスクが出てきたときなど特にそうでしたね。

かつては映画館にカメラを持ち込んで自前のスチル写真を撮る人も……
かつては映画館にカメラを持ち込んで自前のスチル写真を撮る人も……

竹内 それについては面白い話があります。当時は著作権の扱いがいいかげんだったために、レンタルビデオショップはなんと、ダビングを勧めていたんです。定価1万8500円の60%くらいでお店に卸されているわけですが、それをお客さんのためにダビングしてあげる。元々レンタルレコード店の発想で来てますからね。マニアはそこでダビングしてもらって所有していました。それが80年代初頭くらいだと思います。それから段々と著作権が厳しくなって、禁止されていくわけですが。日本のレンタルショップの数は1万8000店から2万店強と言われた時期がありますが、ひどい時はそのうちの5000店ほどが、すべてダビングしたビデオの海賊版を並べてたという話もあります。よく摘発されて当時ニュースになってました。

生井 やらずぶったくりってやつですね(笑)。

竹内 やり逃げの時代です(笑)。捕まったら一旦店を潰して、別な場所に店を作ってまた始めるという業者も多かったようです。店頭に「ダビング2本✕✕円」といった価格表示も掲げてありましたよ。映画マニアたちはそこでダビングしてもらったり、自分でダビングしてコレクトしたりしていたんです。しかし、それではマズイということで録画できないシステムを作ろうということになりました。まあ当然ですよね(笑)。

生井 それまでは映画をコピーするという発想自体がなかったですよね。そもそもコピーできるとは思ってない。

竹内 ビデオが登場するまではないですよね。でもビデオが登場してきた途端に、みんなそれを考えたわけです。テレビで放映される映画をダビングしたり、レンタルビデオショップに並んでいるビデオをお店でダビングしてもらったり。そういう時代が一時期あったんです。まさに無法地帯でした(笑)。

【後編に続く】

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