全く新しいパースペクティブから再構築される〈アメリカ映画〉の歴史 誰も語り得なかったその真の姿とは?
記事:作品社
記事:作品社
「写真やテレビなどの隣接する表象芸術に目を配り、カメラやフィルムなどの撮影機材、照明や編集などの技術的側面の変化を踏まえ、記録映画・実験映画・劇映画を同列に置いてその人的交流や表現の境界線を論じ、数多著されてきたハリウッド中心主義の歴史とはまったく違う、新たなパースペクティブを創出する。かつて誰も語り得なかった、〈アメリカ映画〉の真の姿!」(出版社による内容紹介)
まずは次の2本の映画を観ていただきたいと思う。いずれも一般的に「ドキュメンタリー映画」に括られる無声短編映画である。
一本は『マンハッタ』(1921)。撮影・編集を手がけたのは、写真家ポール・ストランドと画家チャールズ・シーラー。
もう一方は『街路にて』(1948)。こちらを撮影・編集したのは、写真家ヘレン・レヴィットに加え、友人のジャニス・ローブと(小説家および映画評論家としても知られる)ジェイムズ・エイジー。
『マンハッタ』
https://archive.org/details/silent-manhatta
『街路にて』
https://www.youtube.com/watch?v=7aH7l52gP6E
どちらも都市の風景を次々にとりとめなく繰り出しているだけではないか、と思われるかもしれない。けれどもよくよく観てみると、映画ならではのテクニック、つまり撮影と編集を通じて複数の映像を作品としてまとめ上げていることがわかる。とはいえ、この2本の短編が映画的テクニックを使うやり方は、ほとんど対照的なものだと言っていい。
まず『マンハッタ』は、原則として静止した画で構成されている。ただ、構図の作り方が独特で、たいていの場合建物の上階から街の風景を見下ろすかたちの、美しい画面構成の数々が印象的だ。では『マンハッタ』は絵葉書的光景の連続にすぎないのかというとそんなことはなく、全部で65を数えるショットを使って、作り手たちは観る者になにごとかを語りかけようとしている。
つまり、早朝に通勤者の群れと共に匿名的な「眼」がこの急速な近代化を遂げつつある街を訪れ、昼下がりに街行く人々や工事現場や乗り物たちを眺め、日暮れどきに再び去って行くまでの「物語」を紡ぎつつ、街をいわば成長途上の生き物としてとらえ、これを讃えているのである。
対して『街路にて』のキャメラは、ずっと動き回っている。加えてその視点は、ほぼ人間の目の高さに等しい。『マンハッタ』が三脚上のキャメラによる主に俯瞰視点で構成されていたのに対し、こちらは手持ちのキャメラで撮られているからだ。だからとらえられた画はたいていの場合不安定で、近くで動き回る老若男女、とりわけ子どもたちをどうにか視界に収め続けようとあっちを向いたりこっちを向いたりするのだが、彼らがフレームの中心からずれたり、フレームそのものからはみ出してしまうこともしばしばだ。だから画としては「美しくない」のだが、それが妙に活き活きとした感じを与える。
それからもう一つ、この映画は編集を通じて数多くのごく短い画をさまざまなかたちでつなぎ合わせている。その「編集」の例を一つ挙げよう。たとえば、何かを見つめている人物の画Ⓐが示されると、続いて提示される画Ⓑが、あたかもⒶにおいてとらえられた人物の視線が向かう対象であるかに思われる。
『街路にて』は、ドキュメンタリー映画編集において活用されることが少なくない、このような時空の連続性を錯覚させる手管──言葉は悪いけれど、要は視線を介したつなぎ──をも随所に用いつつ、人間たちと彼らを取り巻く環境をとらえたさまざまな映像断片を有機的に結合させていくかにも見えるのだ。と同時に突出して感じられるのが、撮影者(つまりレヴィット)の──被写体となった人々に寄せる親密な感情を想像させる──視線である。『マンハッタ』が都市賛歌であったとすれば、『街路にて』はさしずめ人間賛歌だ。
同じ写真家が撮った映画でも、まるで違ったものに見えることがわかっていただけたことと思う。この違いは、アメリカ合衆国における戦前と戦後の「ドキュメンタリー映画」のあり方の違いも象徴しているかに映る。今日われわれが、たとえばある劇映画を観て「ドキュメンタリー映画」のようだとつぶやくとき、頭に思い浮かべているその「ドキュメンタリー映画」とは、視覚的に『街路にて』に近い特性を備えたものではないだろうか。
『〈アメリカ映画史〉再構築』はひとまず、この『街路にて』に始まる、街なかへ繰り出して、手にした軽量小型キャメラで自在に被写体を追うことを重視した映画人の系譜をたどってみる。レヴィットの志を継いだ人物は、やはり写真家のモリス・エンゲルとルース・オーキン夫妻である。とりわけエンゲルは自作の軽量小型キャメラを用いて独自の身軽な映画作りを実現しただけでなく、音の面でも画期的なことを試みた。つまり(当時はきわめて困難だった)街頭での同時録音をおこなったのである。
防音スタジオの外で試みられたこのような画と音の一致は、日頃自分たちが慣れ親しんでいる周囲の現実に映画を近づけたいという作り手たちの願望を反映している。夫妻の後に続いた映画作家たちも、基本的にこうした姿勢を共有していた。そこにはシャーリー・クラークやジョン・カサヴェテスのような劇映画を手がけていた人々のみならず、「ダイレクト・シネマ」と総称されるドキュメンタリー映画群に関わった人材も加わってくるだろう。やがてはハリウッドのメジャー系映画も、彼ら独立系映画作家の試みを導入するようになる。このような変化には複雑な経緯が絡んでくるのだが、その一端としてスタジオのあり方そのものが戦後に大きく変貌していた事実を挙げることができる。
たとえば40年代末期のいわゆるパラマウント訴訟判決(製作・配給・興行を垂直統合していたメジャー系映画製作会社8社が独占禁止法違反で敗訴した一件)に始まるおよそ30年間は、ハリウッドのメジャー・スタジオ界隈がだいたい10年周期で大きな変化を被ることになる時代だったのだといえる。同訴訟に敗訴した結果、スタジオ各社は50年代を通じて自社製作による映画の数を減らしていき、60年代にはハリウッドで製作される映画は独立系の会社が製作したものばかりとなった。
だから、実質的に60年代のハリウッドのスタジオは、数多くの独立系製作会社とその人材を束ねる場であると同時に、テレビ番組製造工場へと様変わりしていたのだった。観客動員数の低迷と大作映画の興行的失敗によるハリウッドの凋落が底の底まで達した60年代末期になる頃には、かつてのようなプロダクション・ヴァリューはもはやまるで期待できず、またヴェトナム戦争をめぐって国内世論が分裂していたこともあり、内容的にも外観的にも「ハリウッド映画」は現実の似姿的なものへと近づいていた。ここにいたって、戦前以来の独立系映画人たちと、かつてとはまるで別ものに変わり果てたハリウッドのスタジオ映画が、ほとんどその足並みを揃えることになる、という見立てが、本書を貫く軌道(いわば、ドキュメンタリー映画と劇映画、独立系映画とスタジオ映画の境界線、その有無をめぐる軌道)と言えるかと思う。
とはいえ、この本のなかで作ってみた軌道はこれ一つではない。ほかにもたとえば、イデオロギーの変遷、技術と方法論の相関関係、テレビと映画の共生関係、人的交流などをめぐる軌道があって、それらが60年代末期にハリウッド映画業界で交差し、その後どうなっていったかを見据えようとしている。だから確かに映画をめぐる歴史を語った本ではあるのだが、正直なところそのように割り切られてしまうのも、筆者としては少々不本意である。前述したいくつかの軌道を語るに際し、欠かせない映画作家や作品に焦点を絞って論じた章をいくつか設けているのは、個々の映画の細部が語りかけることにもできるだけ耳を傾けたいと考えたからだ。それがうまくいっているかどうかはともかく、大局的視点と局所的視点を行ったり来たりしつつ、〈アメリカ映画〉のある一面を自分なりに切り取ってみたかったのである。
※本書の目次、「序に代えて」、「第一章 リアリズムとモンタージュ」冒頭部は作品社サイトで公開されています。https://www.sakuhinsha.com/art/28508.html