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自分とは違う正義をもつ人たちの中で、私たちを動かすもの、私たちが動かすもの

記事:明石書店

『イギリス発! ベル先生のコロナ500日戦争』(明石書店)
『イギリス発! ベル先生のコロナ500日戦争』(明石書店)

何考えてもぜんぶムダになるんだろうな…

 先日ある高校生が、こんな体験を語ってくれました。

「〔部活の〕キャプテンになったとたんにコロナで学校が休みになって、2か月ぐらいしてようやく始まって、部活ができるってなって、みんなもやる気になってて、よっしゃー、練習メニューをめっちゃ考えて。着替えて、体育館で準備運動してたら、ピンポンパンポーンって校内放送で、陽性者が出たから部活中止です、生徒は至急下校しなさいって。ああ、またかって。練習メニュー、考えてたのに。きっとずっと、何考えてもぜんぶムダになるんだろうなって。そんなふうに思ってしまって…」

 世界中がコロナに揺れ続けて、はや2年。この長く短い時間のあいだに、病いについてだけでなく、仕事や、家族や、学校や、友だちのことなど、コロナにまつわる無数の物語が紡がれてきたと思います。本書にも書きましたが、私にとってそれは、「誰かが正解を示してくれる」という思い込みに、自分がどれほど甘えて生きてきたかを痛感するという体験でした。研究者のはしくれとして、「あたりまえを疑うこと」「自分の信じる答えを探し続けること」を生きる柱にしてきたつもりでした。けれども既存のシステム上で安穏と暮らしていたに過ぎなかったと気づかされたのは、2020年4月に勤務先の大学が新学期を迎え、リモート会議、感染対策、オンライン授業と、初めてづくしのシャワーを浴び、泣き言を言っていたときでした。本書の冒頭でも紹介しましたが、「コロナ問題の最初に何が起きたのか」という質問に対してベル先生(本書の主人公)が語った言葉、「パニックだったよ」という言葉は、まさに私自身のことでもあったのです。

イギリスと日本の学校では何が違うのか

 本書は、イギリスで最も感染の厳しかった地域のレイクウッド小学校で、コロナをめぐって奮闘したベル校長先生へのインタビューをもとに、何がどんなふうに起こり、それに先生方がどう向き合ったのかを物語として書き起こしたものです。そこには、創意工夫あふれる授業や思い切った取り組みがあふれています。と同時に、おそらく日本の学校の先生たちが想像もしなかった苦悩と葛藤も、垣間見えます。

 イギリスのロックダウンの際には、一斉休校について学校に事前に何の連絡もありませんでした。テレビの前でニュースを見ながら、「明日から学校は休み」「明日から学校再開」を知らされる。そんなときのベル先生のショックは、想像しきれるものではありません。と同時に、そんなことがあっても即時判断し行動する、ベル先生の決断力と行動力には、圧倒されるものがあります。

 イギリスは、日本とは学校の役割や教育・福祉行政にさまざまな違いがあります。最大の違いは、子どもたちの学びと暮らしのために何をしているのかについてのアカウンタビリティ(説明責任)を学校が背負っている、ということです。日本の公立学校は、定期的な人事異動によって、1つの学校がその学校独自の硬直性をもちすぎないように設定されています。具体的には、学校のトップである校長先生によって学校の方針が定められますが、その校長先生は数年に一度変わります。だからこそ、地域の貧困や学習困難等の問題に対して、学校はそのつど最善の努力をするとしても、一校長が全責任を負うなどということは考えにくくなっています。

 他方イギリスの学校では、校長先生は任期のない会社の社長のようなもので、子どもや保護者に、自分たちのサービス(授業の取り組みや成果)の魅力を宣伝し、また政府たちに自分たちの教育効果をアピールし、良好な経営状態を維持しなければなりません。これは具体的には、政府が「一斉休校の間、貧困世帯には給食の代わりに食料を届けること」という指示を出せば、校長先生自らトラックを運転してスーパーマーケットに行き、リンゴやポテトチップスを大量に買い込んで、家庭に配ることもする、ということなのです。

 そういう学校のしくみの中で、コロナ問題が起きました。レイクウッド小学校は、移民率が50%を超える地域にあり、例えば病院の清掃スタッフやAmazonの配送員として働く経済的にゆとりのない家庭をたくさん抱えています。ここでも、パニックが生じます。「ロックダウンという政府の方針に従うと、子どもたちが困ってしまう」という板挟みの状況に対して、責任を取らなければならないというパニックです。政府の方針と、子どもたちを守るという教育の役割。2つの異なる「正義」に迫られる中で、ベル先生たちは、自分たちの「正解」を瞬時に導き出さなければなりませんでした。

仲間と思いを共有する―偉大なリーダーシップ

 長引くコロナは、別のパニックも引き起こしていきました。なぜなら、学校の先生たちもまた、病気におびえる人間であり、教育や仕事や生き方について相互に考えの違いがあるからです。安全に授業ができないなら学校には行かない。長引くパンデミックの中で、教員たちのそんな抗議活動がイギリス中で起き、レイクウッド小学校もまた、そうしたうねりの中に巻き込まれていきます。先生たちが来ないから、学校が開けない。授業ができない。ベル先生は、そんな事態にさえ直面します。

 ベル先生は、この困難について、次のように語っています。

私たちは、みんなをなるべく落ち着かせようとしていた。人々は私がすべての答えを知っていることを期待していたが、でも何が答えかなんてわからなかった。私たちはチームとして働き、そして即興でものごとを進めなければいけなかった。みんなが本来の業務以外の仕事をしなくちゃいけなくなって、そしてそれはロックダウンの間中ずっと続いたんだ。(第1章)

 パニックになっても、みんなに、自分たちは仲間だとわかってもらうこと。そして、そうやって確認できた仲間と情報を共有し、「子どもたちの学びと暮らしを守る」という自分たちの正義を確かめていくこと。それが、ベル先生のパニックから脱する道程そのものでした。リーダーの数だけリーダーシップの在り方があるとして、仲間を大切にして勇気づけ、また情報と思いを共有するというベル先生の決断と行動の仕方は、本人は決してそう語りませんが、偉大なリーダーシップだろうと思います。

すべては、子どもたちのためになっているか

 コロナは、人の数だけの物語を生み出しました。冒頭の高校生は、自分の努力や工夫が、がんばるそのつど潰される体験を重ねる中で、次第に、努力そのものが難しくなっていったと言います。でも、自分や家族がコロナに罹って苦しんだわけじゃないし、報道されるような「親の失業」「進学断念」といった事態に直面したわけではないし、部活ができないことぐらいで文句を言うなんて甘えてると批判されるのではないか、とも語っています。思春期のやわらかな心に、コロナは何重にも否定の物語を植えつけていったことを感じます。

 パニックには、その人の強さも弱さも現れます。それこそが、物語です。この高校生に、ベル先生の物語を読んで、自分で道を切り開いていくおとなの姿を知ってほしい。私はそう思います。自分とは違う正義をもつ人たちに囲まれて、政府や、役人や、保護者や、同僚たちに正解を求められる中で、ベル先生が首尾一貫して語った先生なりの答え、それは、例えば次の言葉にあるように、すべては「子どもたちのためになっているか」を判断の基準にする、という力強い信念でした。

子どもたちに可能な限り最高の経験をさせたい、可能な限り前向きになり、今の状況を最大限に活動することは共通の課題でした。校長という立場で、自分で何とかできることもあれば、政府や規制など、私たちが従わなければいけないものもあります。それを使って最善を尽くす必要があることを学びました。(第4章)

◆発刊記念オンラインイベントのお知らせ
来たる4月2日(土)に、苅谷剛彦氏(オックスフォード大学)をゲストに迎え、本書の発刊記念イベントが行われます。
詳細内容と申込はコチラ→https://bell-teacher.peatix.com

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