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「統治の抗争史」書評 組み込まれた欲望や自発性

評者: 齋藤純一 / 朝⽇新聞掲載:2019年01月26日
統治の抗争史 フーコー講義1978−79 著者:重田園江 出版社:勁草書房 ジャンル:哲学・思想・宗教・心理

ISBN: 9784326302710
発売⽇: 2018/11/16
サイズ: 22cm/500,57p

統治の抗争史 フーコー講義1978-79 [著]重田園江

 本書は、近代における統治の成立と変容を主題とした晩年のフーコーの講義を取り上げる。とはいえ、その講義内容を忠実になぞるわけではない。本書の魅力は、フーコーが直接言及していない思想家の議論や同時代の論争にも分け入って、16世紀から18世紀半ばにかけての統治をめぐる言説の錯綜と抗争を浮き彫りにしている点にある。
 フーコーによれば、国家が人々に及ぼす権力は一律なものではなく、法、規律、そして統治という三つの異なった形態をとる。規則によって禁止と許容を線引きする法的権力だけでは近代社会の秩序は成り立たず、個々人の身体にはたらきかけ、正常な規範に沿って振る舞うように規律する権力もまた不可欠だった。本書がとくに注目するのは、18世紀半ばに、市場社会の出現に対応して現れた新たな統治形態、「自由主義的な統治」である。
 この統治の対象となるのは、法的・政治的な主体でも個々の生ける身体でもなく、「人口」である。「人口」は、数量化・統計化を通じてとらえられる集合的な存在である。たとえば、1・53という出生率によって人口減少のリスクが認識されるように。罹患率、食糧自給率などの場合も同様であり、それぞれのリスクに対処しうる「セキュリティ」の構築がはかられる。
 現代へと続く自由主義的な統治は、「人間の欲望や自発性を組み込みながらそれを誘導するタイプの統治」であり、規則や規範を人々に強いることはない。だが、この統治によって促される自由は、あくまでもシステムに適合していなくてはならない。「間違った」振る舞いははじかれる。
 本書は、このような統治の登場に抗して萌芽的な段階で異を唱え、経済が政治に統治の基準を与えるとする発想に疑問を呈した思想家たちの議論を重視する。そのことを通じて、自明とされてきた事柄がさほど必然的ではないことを示すフーコーの立場を継承する。
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 おもだ・そのえ 1968年生まれ。明治大教授(政治思想史)。著書に『隔たりと政治』『フーコーの穴』など。