本にかかわるすべての人に思いを馳せる:文喫 六本木・及川貴子さん
記事:じんぶん堂企画室
記事:じんぶん堂企画室
六本木駅から地上に出て、六本木ヒルズに向かうとすぐ左手に、「文喫」を掲げた看板が見える。
入り口に入ると、入場無料の企画展示のスペースと雑誌棚、文喫のセレクトした新刊のコーナー。右側の受付で料金を払って入場バッジを受け取ると、奥の階段を上がって有料スペースに入ることができる。
階段を上がると、正面に哲学や文学、映画や科学などのジャンルの本が並ぶ選書室。右側の喫茶室では、珈琲と煎茶がおかわり自由で、牛ほほ肉のハヤシライスをはじめとした逸品を堪能できる。左手後方には本とじっくり向き合ったり、仕事の作業をしたりする閲覧室がある。
お客さんの利用の仕方は幅広いという。休みの日に友人や恋人と来て、ゆったりと好きな本と向き合う人もいれば、平日に仕事道具を持ってコワーキングスペースのように使う人もいる。本はアイデアの源泉、クリエイティブな仕事に就く人には最適な環境だろう。近隣に森美術館や新国立美術館など美術館も多いことから、展覧会を訪れる前後に来て、アート関連の書籍を手に取る人も多いそうだ。
そんな文喫の一番のこだわりは、本との偶然のめぐり合わせを大切にすること。
「出会うべき人に出会ってほしいという思いがあります。通常の書店では人気のランキングがあって、売れている本が前面に出ていますが、それだけではなくて、それぞれのお客様が今興味がある本との出会いも作れたらいいなと思っています」
そのために、本は一点一冊だけしか置いていない。
「もし他の誰かがその本を手に取っていたら、他の人は手に取れません。本との運命の出会いを感じていただけると思っています」
一冊の本を手に取ると、その下からまた別の本が現れる。また、雑誌棚はボックスになっていて、扉を開くとその中に特集テーマと関連した本が並んでいる。すぐ側にある本との関係性を探るのが楽しい。好奇心がかき立てられる設計だ。
特に力を入れているという人文書の棚を案内してもらった。哲学のコーナーでは、プラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャ哲学の古典から、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、メルロ・ポンティなどの20世紀現代思想の名著までがずらりと並べられている。
「哲学の名著はいつの時代も求める方がいらっしゃると思います。文喫には年に一冊だけしか売れない本もあります。もしかしたら、オープンから3年間売れてない本もあるかもしれません。でも置いておきたい本は、しっかり置くようにしています」
企画展示やイベントにも力を入れている。本にかぎらずジャンルは問わず、新しい世界と出会えるような内容を目指している。「本は何事も深掘りするのに最適のツール」とのこと。
及川さんは昨年11月に文学をテーマにした台湾のネイルブランド「et seq.」とのコラボ企画 「指先に文学を纏う」展を実施した。フランツ・カフカやヴァージニア・ウルフなどのコラボ商品を作っている同ブランドに声をかけ、及川さん自身も敬愛する宮沢賢治の商品を文喫オリジナルで制作した。本と一緒に購入する人も多かったそう。
そんな新しい世界への入り口の演出方法を常に模索している。
及川さんは文喫を運営する日本出版販売株式会社に入社後、最初の3年間は広島支店に配属され書店営業をしていた。そして昨年の6月から、文喫でブックディレクターとして勤務している。イベントや展示の準備・告知をはじめ、売場づくりなど幅広く担当する。そんな及川さんは「小さい頃からずっと本は当然のように隣にあった」と語る。
「赤ちゃんの時から、毎日親に読み聞かせをしてもらっていました。物心がついた頃から、自分で絵本を読むようになり、小学校に入ってからは『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』など学級文庫に置いてあるような本を読んで生物の世界に興味を持ったり、手芸の本を読んで編み物やビーズに挑戦したりしていました」
「中学生の頃は、アメリカのハイティーン向けの小説を読んでみたり、夏の文庫フェアに選ばれている小説を順に読んだりしました。高校生の頃は、電子辞書の中に入っている日本の近代文学を授業中に読んでいました。ずっと年相応の読書をしてきた気がします。」
大学では文学部で英米文学を学んだ。出版社に興味を持ったこともあったが、就活で実際に編集者に話を聞いているうち、すでに熱意を持って作られている本がたくさんあるということに気がついた。「新しく作ることよりも、すでに作られた本たちを、出合うべき人にしっかりと届ける仕事がしたいなと思いました」
及川さんに自分を変えた一冊を尋ねると「本は自然な存在なので選ぶのが難しい」とこぼしながら、作家・いしいしんじさんの第一長編小説『ぶらんこ乗り』の新潮文庫版を挙げた。
ぶらんこが上手で、声を失ってしまった「弟」。しかし、動物と話ができる、つくり話の天才でもあった。そんなもういない彼が残した古いノートを読んでいくという体裁の物語だ。及川さんはあたたかさのなかに、ちょうどいいくらいの寂しさがあるという。
「いしいさんは他の小説でも、物語=嘘を信じる才能があるほうが、人生が豊かになるということを書いていました。そんな物語の意味が感じられる長編です」
「ちょうどいい負荷のかかる読書ができるんです。かわいらしくてとっつきやすいんですけど、自分の想像力を広げないと読めないようなところがある。誰かが『読み手に負荷のかからない読書は読書ではない』ということを書いていましたが、この作品は誰でも読めるのに、そうした負荷も同時にある。絶妙なバランスだと思います」
この本が強く印象に残っている理由は、作品内容の良さだけではない。高校生の時に、当時住んでいた広島の古書店で出会ったそうだが、なんとそこには前の持ち主からの手紙が挟まっていた。
「それまでは単に自分の読みたい本を自分で選んで読んでいると思っていました。でも、たとえば古本屋さんなら、前の持ち主がどこかの本屋さんでこの本を購入して、その古本屋さんに売ったから、私が出会うことができる。新刊の本屋さんでも、その本を書店員さんがそこに並べてくれたから、自分が出会うことができるんです。そういうことを初めて意識しました」
「さらに言うと、このかわいくて素敵な表紙を作ってくれたデザイナーさんやイラストレーターさんがいる。そして発注した編集者さんがいて……。一冊の本の後ろに、たくさんの人がいることに気づかされました。本が自分の手元に届くまでに思いを馳せるきっかけになって、本を届ける仕事に興味が出てきました」
続いて、今こそ読みたい人文書について尋ねると「最近すごく面白いと思っているのがこれです」と『なめらかな社会とその敵』(著者・鈴木健、勁草書房)を取り出す。
「社会は本当は複雑なものなのに、人間の思考や認知には限界があるので、私たちは無理やり単純にして理解しようとしている。その複雑さを複雑なままに受け入れられる『なめらかな社会』を実現できないか、という実験をしている本です」
著者の鈴木健さんは複雑系、自然哲学を専門とする研究者。貨幣、政治、法などの分野を横断しながら、新しい社会を実現するためのさまざまな提案をしている。
「たとえば、今の貨幣制度では富が一部に集中してしまいます。それを避けるためにはどうしたらいいのか。この本で提案する貨幣システム『PICSY』では、すべての取引を投資だと捉えます。何かを販売して、買った人が社会的な成功をした場合などに、そのリターンが来るようなシステムです」
「今ベストな社会のシステムは何だろう、と改めて考えさせられます。私を含む若い世代の人は、社会に諦念を抱いている人が多いように感じます。そういう方や、社会に閉塞感を感じている方に読んでいただきたいです。まだ社会は進化の途中なのだと、前向きな気持ちになれると思います」
最後に及川さんに改めて本屋と紙の本の魅力を聞くと「自分の知らないものに出会えること」だと語る。
「紙の本だからこそ、手触りや厚さ、色などをきっかけに手に取ることができるような気がするんですよね。(デジタルのように)均一な画面ではなくて、変わった紙を使った本だなとか、いい色合わせの帯と表紙だなとか。そうしたきっかけがあるのは、紙の本ならではだと思っています」
コロナ禍以降、外出自粛のムードの中、お客さんの数が減ったこともあったが、今は改めて本の価値が見直されている時代だと考えている。
「振り回されない自分を持ちたいという想いを持つ方や、あえて現実を離れて全然違う世界を知りたいと考える方も多いと思います。リモートワークの普及が進んで、通勤にあてていた時間を勉強や趣味に使えるようになったという方もいらっしゃいます」
「本が売れないと言われ続けていますが、それでも本があると自然と人が集まってくる。そこから新しい会話が生まれる。本の可能性はまだまだあると感じながら、仕事をしています」
本と人とのあらゆる出会いをつくりだす空間、文喫。ここで手にとった本をきっかけに、本屋や紙の本のかけがえのなさ、そして新たな誰かと出会う可能性について思いをめぐらせてみたい。