まずは生物学や臨床医学からとらえた「死」の現実を――宗教なき時代に「死」を見つめて(前編)
記事:春秋社
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著者は精神科の医師である。さしあたって死について語ろうとするならば、終末期にある人々の死への不安や抑うつ、自分だけが死ぬことへの孤独や怒り、残される周囲への気がかりといった死に逝く人間の心理を、専門的立場から語るのが常道かもしれない。しかし、こういった語りには、われわれは十分に用心するべきである。なぜなら、死に逝く人の心理をくまなく語り尽くすことができれば、それが死の全貌を語ったことになるという錯覚をしばしばわれわれは起こすからである。このとき、死の核心がいつのまにか死に向かう人々の心理にすり替えられたことになる。
このような別のものへのすり替えは、死に関わる文化人類学、倫理学、法律学を始め、あらゆる死を語る学問領域の中に潜んでいるように思われる。しかし、本書は、死に隣接するだけで死そのものではないものへの語りにはいっさい興味を示さない。常に、「死とは何か」という素朴な問いのみに目を向ける。本書は、第一部はバイオロジーからの、第二部は臨床医学からの、第三部は現代哲学からの死の分析よりなる。まさに、異種混淆のアクロバッティングな組合せであるが、「死とは何か」を問うということでは共通の目標をもつ。
意外ではあるが、地球上に生命が出現してから38億年の歴史の中で、その半分以上を占める最初の約20億年の間、生命は不死であった。それは、次のような事情に由来する。
現在、人間を含む地球上に生きる多細胞生物では、身体を作る細胞のうちの相当数を毎日廃棄し、廃棄した分だけ新しい細胞に置き換わっている。ちなみに人間では人体を構成する六十兆の細胞のうち、その約二百分の一である三千億個の細胞を一日に廃棄し、それを補完するために毎日ほぼ同数の細胞が生産される。この新たに生産される細胞は、元の細胞のDNAがコピーされ、1個の細胞が2個の細胞へと細胞分裂することによって作られる。ただし、この新旧交代を永遠に続けることができるかというと、そうではなく、生物種ごとに細胞分裂ができる回数は定められており、これがヘイフリック限界と呼ばれるものである。人間のヘイフリック限界は50回から60回であるがこれには約120年かかり、それを過ぎると新しい細胞の補完ができず、身体は一方向的に死に向かうしかない。これが、絶対的な人間の寿命にあたると言うことができる。
ところが、地球上の生命誕生から20億年間は、生命は原核生物ばかりで占められていた。この原核生物では、多細胞生物の線状に並ぶDNAとは違ってDNAが丸くゴム輪のように繋がっているために、ヘイフリック限界の原因となるDNA末端の短縮が起きなかった。このため、原核生物では無限に細胞分裂をすることができた。したがって、原核生物では、熱、放射線、圧力といった物理的侵襲を加えない限り、永遠に生き続けることができたのである。これは、はじめ生命に死はなかったことを意味する。
ところで、人間のDNAは加齢に伴って紫外線、宇宙線、活性酸素などによるダメージが蓄積するが、このダメージは卵子や精子などの生殖細胞も例外ではない。このことは、高齢の親からの子であるほど自己修復力を超えたDNAの傷が残り、代を重ねるごとに傷が蓄積し、ついには種の存続に不利な子孫ばかりとなって最終的には人間という種の絶滅につながった可能性が高い。また、人間が死ななければ爆発的な人口増大が起こり、すぐさま食料や居住環境の問題につながったであろう。このことからすれば、限られた寿命をもったからこそ、ホモ・サピエンスは約20万年もの間現在まで存続でき、その中の一人として自分がここにいることも事実である。
しかし、われわれがここで注目するべきことは、DNAのダメージといった体内にある問題や、食料や居住環境といった体外にある問題は、地球上の人間に与えられた経験的な事実であり、決して論理学的な事実ではないということである。実際に、DNAのダメージを解消する技術は遺伝子工学の発展によってすぐ目の前にあり、また、体外にある問題も、たとえば人類の地球外への移住といったことによって解決される可能性はゼロではない。このように、生物の一員としての人間にとって死が付随するべきかどうかは、宇宙や地球の偶然的な状況に常に依存し、最後まで必然的なものとはならない。
われわれ医師は患者を看取るにあたり、「何時何分。ご臨終です」と家族に告げ、その時刻を死亡診断書にも記入する。このような医師の行為に誰もが疑問をもたないのは、おそらく「死の瞬間」という一点が存在するという神話を、皆が共有するからであろう。
しかし、実のところ死はゆっくりとしたプロセスをとり、生と死の狭間は常に曖昧である。ちなみに、われわれにおける死の判定は、臓器移植のドナーとなる場合を除き、心停止、呼吸停止、瞳孔散大からなる「三兆候」によってなされることになっている。ところが、この三兆候のうちのどれかが行きつ戻りつのことがときにあり、三兆候が揃って死亡を家族に宣言したあとに、モニターに心電図波形が出現したり、突然に胸部が呼吸様に動き出したりすることがある。そればかりではない。現実には、三兆候が完全に揃ったとしても、その後に組織の細胞が崩壊するまでの時間は、身体の個々の臓器でまったく異なる。たとえば、肺や肝臓では心臓の停止後ただちに崩壊が始まるが、腎臓では一時間後、角膜では十時間後まで崩壊は始まらない。腎臓や角膜の移植が、心拍動がまだある脳死のドナーからのものでなくてもよいのはそのためである。
このように、死亡時刻とされている時刻からかなりの期間は、身体を構成する組織がどれほど崩壊しているのか曖昧な段階であると言える。しかし、それでもわれわれは死者の身体をこの段階で荼毘に付すことをとくに厭わないであろう。なぜだろうか。それは、死者の身体の中で、ある特殊な臓器は間違いなく崩壊していると考えているからである。その特殊な臓器とは脳であり、体内の細胞のうちもっとも低酸素状態にデリケートな脳内の神経細胞は、終末期のかなり早い時点で不可逆的に崩壊してしまう。この脳の崩壊は、われわれにとって特別な意味をもち、すなわち、その崩壊によってわれわれが「心」と呼んでいるものが存在しなくなってしまう。
この「心」なるものは、記憶、感情、意志などの精神活動として理解されることが多いが、荼毘の例で問題となるのは、こういった活動の能力よりも、それに付随するなまの体験としてのクオリアであろう。死の進行と共に、クオリアの内容は徐々に未分化なものに解体され、そしてついにはクオリアの内容は消失してしまう。死によるクオリアの内容の消失は、私の完全な消失を意味するのか、それとも、何らかのものが残存するのか。これが最後の第Ⅲ部における死の哲学の主題となる( ― 後編に続く)。