当事者としての「私の死」を現代哲学の視座で探究すると――宗教なき時代に「死」を見つめて(後編)
記事:春秋社
記事:春秋社
本書の到達点をあらかじめ示しておくと、それは、人間が死後において完全な無に帰すことを否定するものである。たしかに、死によってわれわれの身体はすべて解体し、その材料であった分子や原子も宇宙に撒き散らされる。とくに脳の解体は、生きていた時代に経験した様々な出来事の記憶の消失と、固有な人格を形成していた感情、知識、意志に関わる特質の消失を意味するであろう。しかし、その上でもなお、自分が生あるときに保持していたあるものが、死後にも残存すると本書では主張しようとする。いったい、何が残るというのだろうか。
ここでわれわれは、英語圏の哲学で議論が展開されている「心の哲学」に目を移したい。現代の脳科学の進歩はすさまじく、近い将来には人間の精神活動はすべて自然科学の用語で説明できるようになるかもしれない。しかし、それでも最後まで説明の及ばない問題が残されると考えられ、それは、脳という物質的存在になぜクオリアという人間がもつ主観的体験が伴うのかという問題である。心の哲学では、先の自然科学の説明をイージープロブレムと呼ぶのに対し、この残された問題をハードプロブレムと呼び、哲学に課せられた問題領域であるとされている。さらに、近年の心の哲学では、ハ-ドプロブレムよりもさらに手強いとされてハーダープロブレムの名で呼ばれる問題が提起されるようになった。それは、大勢の人間が存在する中でこの自分はなぜよりによってある1人の人間のクオリアを体験するのかという問題である。これを逆から言えば、ある一定の人間のクオリアがなぜよりによってこの自分のクオリアなのかという問題である。
このハーダープロブレムは、自分が人称的次元において唯一の比類ない〈私〉という一点であることに由来するが、現実世界の自分がもつこの唯一性は、時間的次元にも、また、空間的次元にも当てはまる。すなわち、自分は長大な時間の中でなぜか唯一の〈いま〉におり、また、自分は広大な宇宙の中でなぜか唯一の〈ここ〉にいる。これらの唯一性は、どれもその根拠をほかにもとめることができないものであるが、ともかくも、自分は現実世界において常に〈私〉〈いま〉〈ここ〉の組合せからなる比類ない「特異点」をつくる。
それでは、死による脳の崩壊に伴ってクオリアの内容を欠如したとき、生前に保持していた特異点としての契機もそれ自体として存在することをやめるのであろうか。今、自分の特異点としての契機について再び確認すれば、自分の〈私〉〈いま〉〈ここ〉がよりによって人称、時間、空間の特定の一点にあることの理由は、宇宙の始まりから現在まで起こった自然的世界の事象をくまなく調べてもそこには何も見つからない。これは、自分の特異点としての契機と自然的世界の中で生起するあらゆる事象は、始めから個々に独立しており、これら二つが互いに影響しあうことはないことを意味する。
ところで、死という出来事はまちがいなく自然的世界の中で生起する事象である。なぜなら、疾病による死にせよ、事故や災害による死にせよ、死に至るまでの過程はすべて自然的世界の中で生起している事象であり、また、自分の死によってクオリアの内容を作る脳内の活動が停止するのも自然的世界の事象である。しかし、今しがた述べたように特異点としての契機は、自然的世界の中で生起するあらゆる事象と終始無関係なままである。だとすれば、自分の特異点という契機は、自分の死という外界の大変な出来事にもかかわらず、それによって何も影響を受けることはないことになる。このことは、自分の死に伴うクオリアの内容の消失が、クオリアを担う自分の特異点までを消し去るわけではないことを意味する。すなわち、自分において特異点を形成するという特殊な契機は、それ自体としては死後もそのまま残存することになる。本書では、この死後にも残存すると考えられる自分の特異点という契機について、それが存在者としての資格をもつかどうか検討を試みることになる。
死後においては、生きていた時代のように自然的世界の中の身体として、他の多くの身体の群の中で生活しているわけではない。一見すると、死後には完全な孤独が待ち受けているように見える。でも、果たしてそうなのだろうか。それというのも、死後における自分は、孤独が成立するための条件を決定的に欠いているように思われるのである。
今、先に死後にも残存するとした特異点について再確認すると、この自分における生前の特異点は、外部的で俯瞰的な視点から自分と他者が平等に並ぶ座標上で自他の相対的な関係をとらえたものではない。すなわち、自分における比類のない特異点は、自分の内側の視点からのみとらえることができ、横に同型性をもった隣接項をもつことはありえない。このことから言えることは、自分の特異点は、元来より多数の中の一つという値をもった数多性をもつことはない。
このような生前の特異点の性格は、そのまま死後の特異点にも引き継がれることになる。なぜなら、すでに述べたように自然的世界の事象からは独立している特異点に関わることについては、死という出来事から何らの影響も受けることがないからである。したがって、死後における自分の特異点についても、生前における自分の特異点と同様に、一つであったり沢山だったりといった数え上げは始めからできない。
ところで、一般に孤独と言われるものは、自然的世界の人間的事象において、自分とある種の同型性をもった隣人が周囲にいて、それが何らかの理由で周囲にいなくなったとき、孤独というものが成立すると思われる。したがって、もし死後の自分に孤独があるとすれば、自分の特異点は数多性をもつものであって、その上で只一つであることが必要である。しかし、死後に残存する自分の特異点はそのような数多性をはじめからもたない。このことは、死後の特異点は孤独であるための条件を決定的に欠いていることを意味する。
ここでわれわれは、マクタガートに始まる現代時間論を確認したい。マクタガートによれば、時間はA系列とB系列に分けられるとされる。A系列は、ある出来事が「未来から現在へと至り、やがて、現在から過去へ進む」といった時制に関する動的な移行よりなる。一方、B系列は、異なる時点について「より前である、同時である、より後である」といった順序関係を基礎とし、時制は登場しない。
少なくとも永遠に対して強い存在資格を与えるのはB系列的な時間である。なぜなら、B系列では時間軸上に刻まれた日付などの加算符帳だけが時間にとって本質的であり、各符帳のどれもが同等の資格をもって存在するとされる。よって、時間軸の全体が永遠を意味するものとして実在することになる。ところで、自分の特異点としての〈いま〉は、強い現在主義としての今であり、隣に並び立つような他の今をもたず、唯一の固有な〈いま〉である。このような自分の特異点がもつ〈いま〉の特別なあり方は、生前も死後も同様であり、先のB系列的な時間軸がもつ永遠が入り込む余地はない。
このような生前の特異点の性格は、そのまま死後の特異点にも引き継がれることになる。それどころか、死後には身体性を失って、身体性が作る自分に関する歴史年表は、きれいに自分から剥がれ落ちることになる。自分の死は、自分という特異点がもつ〈いま〉の比類ない唯一性を、もっとも純化した形で浮かび上がらせるものと言えよう。このことは、死後に残存する自分という特異点は、永遠を少しも付帯しないことを意味する。別言すれば、われわれの死後には決して永遠が待ち受けているわけではない。