日本の農村研究が海を渡るとき――『東アジアの農村 ─農村社会学に見る東北と東南』
記事:筑摩書房
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世界のいたるところ農村あり。その事実を頼みにして、これまで韓国、中国、タイ、タンザニア、ハンガリーなどの農村でフィールド調査をおこなってきた。といっても、私の専門の出発点は日本の農村研究であって、それは今も変わっていない。他国での研究に特化していない者が、対象が農村であるという共通性のもとで、「比較」を旗印にして研究をおこなう。その意義や困難、危うさはどこにあるのか。
私がはじめて調査で訪れた海外の農村は韓国であった。たしか三一歳の時である。それまで短いながらも日本で農村研究をしてきて、それなりの調査手法を体得していた。そうすると、まず調べてみたくなるのは農村にある組織である。日本には、自治から始まって、農業生産や森林・水などの資源管理、宗教、娯楽、各種の合力と結びついたつきあい関係にいたるまで、組織と呼べるものがたくさんある。組織には何らかの機能や役割が付随しているので、現存する組織に目を向ければ農村における人の結びつきをつかみやすい。
そう思って韓国での調査を開始したが、思うように組織の話が出てこない。経験から振り返ってもっとも日本の農村に近い韓国であっても思うようにいかない。そのとき、郷にしたがう研究視点と手法の必要性をひしと感じた。そのときはまだ若かったので、韓国語の学習から始めて国全体の歴史や文化、社会全体のなかでの農村の立ち位置についても多少の知識をつけた。それでも、時間と経験を積めば肌感覚で理解できる日本の農村とは勝手が違う。しかし、とくに親族関係や宗教において、似ているが根本的に違う韓国農村から「比較」研究を始めたことは、他の国へと転戦するときの貴重な経験となった。
その後のタンザニアやハンガリーになると、だんだんと頭も固くなるし、忙しくもなってくるので言語を学習する十分な余裕も受容力もなくなる。中国農村にいたっては、同行する留学生や彼の地での友人に頼ってばかりで、踏み込んだ理解に届かない。それは、タイでの農村調査も然り。タイでは、農村における基本的なつながりを問う本格的な社会構造調査は諦めて、地元結成の環境NGO活動に研究の焦点を絞った。一人での調査であることや、かけられる時間と能力から考えて、まとめられる可能性のある題材を選んだのである。そのNGOは少数民族の村の社会経済的振興という課題も対象としていたので農村調査に関わりはあったが、農村研究者としては逃げである。
そんなことなら、まじめにおとなしく日本の農村調査に専心すればよいではないか。もっともである。しかし、異国の農村に出向いて暮らしぶりを感じながら、田舎の空気と風景に出会い、究極にローカルな食や酒を楽しむ。もはやこれは私の生きる楽しみなのである。ついでに日本農村を相対化できる視点も得られる。その成果として、私が感じているのは、日本は集団が好きだということである。集団主義的といってしまえばそれまでだが、集団の一員になってこそ安定したアイデンティティが築けるといえるのではないか。それは裏返していえば、個人と直接につながって自分を安定させてくれるもの、たとえば神のようなものを持ち合わせていないことに起因するのかもしれない。
本書は、日本の農村で訓練を受けた研究者による海外農村調査の成果が丹念に整理されている。対象は日本、中国(華北と華中)、韓国をはじめ、台湾、ベトナム、ラオス、タイ、インドネシアにまでいたる。それらの研究は、日本での調査経験をあるときは意識的、あるときは無意識的に鏡として参照しながら、海外農村の理解に挑む。細谷はそれらを通観するなかで、生存のために家のような集団を重視する日本と、個人を単位とした結びつきを重視する国々の違いを指摘する。私としては、我が意を得たりといったところだが、究極のところ比較研究とは自らを知り、基層文化に囚われた研究者自身を解放するための手段なのである。