農業を守ろうとした農学が、満蒙開拓へと日本を突き動かした 藤原辰史さんが歴史を検証
記事:じんぶん堂企画室
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――『農の原理の史的研究』を1月末に出版されました。明治から昭和にかけて農学者たちを論じた内容ですが、キーワードである「農本主義」とはどんな考え方なのでしょうか?
農本主義という言葉をつくった日本の農学者、横井時敬(ときよし)には、資本主義化で工業が産業の中心になりつつある中で、日本の農業を守っていこうという意識は強くあった。けれど、単に農業を守れといったのではなく、農の原理を抽出した上で、その原理のもとに農業の利益を守っていく。農業が国の中心にあり、それが潰れれば国が潰れるという切迫感が農本主義の背景にありました。
戦争直後に農本主義という言葉が有名になったのは、日本の戦争を招いた、日本を軍国主義に走らせた大きな原因が農本主義だったと指摘した丸山眞男の研究のおかげです。日本の近代化の一面を性格付ける言葉として重要だと思います。
――その農本主義のもと、農業の収益性を上げるため、持ち出されたのが道徳や大和魂だったことは興味深いですね。
資本主義が進展していくと、農業の存在感はどうしても一国の中で弱くなってしまう。特に日本は欧米よりも農地が狭く大きな機械を入れられない。そうした不利な状況の中でも、農業は大事だと政府に分からせ世論を作るために、人々が一般に抱く道徳のようなもの、生活実感に根ざしたものに頼らざるを得なかった。農本主義は本来、反西欧的といえる思想だったのに、結局西欧に追いつくために道徳の力をかりて、日本人である以上他民族よりも勤勉でなければならないとか、休み時間と労働時間をきちんと分けるとか、ある意味精神主義とテイラー主義の混合物のようなものが入り込んだ。
これは農業に限らず、学校の部活動や企業にも通じる。精神主義は、コンプレックスに陥っている人をうっとりさせる。そういう危険性を農の歴史、農学の歴史から考えたかったということもあります。
――橋本傳左衛門から杉野忠夫らへ、理論だけでなく満蒙開拓の実践に結びつけたのですね。
私も含め歴史学や人文学など机の上で思考している人たちには、自分が考えたことが現実とかみ合わない、あるいは実践に結びつかないという、いらだちや焦り、諦めみたいなものが多かれ少なかれあると思います。しかし、この時代の少なからぬ農学者たちは机上の空論であることに満足せず、行動に移した。ロシアのチャヤーノフに始まり、横井、橋本、杉野、吉岡(金市)も含めて、実践と論理、理論を結びつけることにこだわった。農学は基礎科学ではなく応用科学なので、どう人間を幸せにするかという問いが常にからんでくる。すぐに実践を求めたがる。この人たちの理論と実践を合一させるんだという気持ちは私も分かる。ただし、それがとんでもない方向に向かってしまった事実はきちんと向き合わないといけない。この本でやろうとしたのはこういうことです。
――1930年頃には小作争議の激化や昭和恐慌、五・一五事件などがあった。そうした時代状況が影響したのでしょうか?
一つはそう言えると思います。小作が満足な収入を得られない、地主も利益を得られない、それでも何とか農業で食わせないといけない。資本主義の矛盾が農村に蓄積される中で、日本は満州国を作り上げてしまう。背景には満鉄や重化学工業の利益は当然ありましたが、もう一つ、国内の農村の矛盾を大陸で解消してもらう、という機能も荷わされた。そうした20世紀の歴史の流れに、彼ら農学者も影響されていたのは間違いない。
ですが、それ以上に重要なのは、そうした流れを農学者たちが作ってしまったこと。影響を受けながら積極的に侵略の流れを作り続けてしまった。とりわけ橋本傳左衛門はその最たる人物として検証にさらされなければならないですね。にもかかわらず、戦後追放にあわず、責任を問われなかった。
――今の農学にも影響は残っているのでしょうか?
今のように資本主義が高度化し、耕作放棄地が増えて農村が衰退していく中で、やっぱり農の原理を打ち出さないといけないと発言している人たちがいます。その中には耳を傾けるべきものも多数ありますが、時々違和感があるのは、橋本たちが言っていたこととあまり変わらなくなることがあること。「ニッポンすごい」論だったり、排外主義と結びついた発言が不用意に出てきたり、危ないなと思って聞いていました。歴史の検証によって鍛え抜かれた農の原理を打ち出すことができれば、もっと人の心に響くはずだと思っています。
――農学を突き詰めていくと、農学だけにおさまらず、他の学問にも目を向けないといけないと書かれています。
農という言葉で表される領域は、医学とか教育、文学、心理とか別のジャンルと直結していると思うんですね。歴史を踏まえた上で農の原理を突き詰めると、単に農業だけでなく生命、人間が人間以外の生命とどう向き合うのかという問いに行き着く。農はいろいろなものとつながり合った生命をめぐる学問の結節点の一つ。そう考えることによって、ようやく農の原理とは何か逆説的に分かるのではないか。
今までの農の原理の考え方は、工学と比較して農独自の性質を見極めることだったが、そうではなくて、農が別のジャンルとどういう相互浸透をして存在しているかというような思考の転換ですね。農の原理は、地動説のように農を中心に回っていると思われていたが、ほかと一緒に生命の学問の周りをぐるぐる回っているととらえ直したかったんです。
――そもそもどうして農学の研究をされたのでしょうか?
私自身は京都大学の農学部ではなくて、総合人間学部の出身です。学部のときにナチスの農業政策に関心を持った。それ以来、農業、農学の本を読むようになったのですが、理系はもちろん、文系の農学本も面白い。経済学ではとらえきれないような現象、気象とか生命体の動きとか、それも踏まえながら農業について語っている文系農学にいたく関心を抱くようになりました。
ナチスの指導者のうち多くがテクノロジーに強い期待を抱いており、農業もまた、トラクター、農業技術からなる近代農業を進めようとした。驚いたのは京都大学に結構な量のナチスやドイツの農業に関する本や論文が眠っていたんですね。日独防共協定を結んでいた盟友なのですが、農学者たちがナチスに関心を抱いていたことに驚きました。
――今の時代、一般には農業への関心は低いのではないでしょうか?
そうですね、とりわけ団塊の世代は経済成長のど真ん中で担ってきた人たちなので、農や農村にはあまり関心がない、むしろ蔑むべきものととらえる人も少なくなくて、たまに愕然とさせられます。食料は海外から輸入すれば良いというエコノミストも多い。私はそれに反対です。
農業への関心が薄れていく中で発言している理由は二つあります。日本は災害が多い。災害時にお金を持っていても、食料と交換はできないと、3.11など災害で知ったはずです。農の価値はお金で買えるという風潮に抗いたい。
もう一つ。私たちの世代くらいから、都会に住んでいても食べものに強い関心を持つ人が増えてきて、農村でリーダーとして農村の活性化を推進している人もどんどん出てきている。そういう人たちへの応援といいますか、歴史学的な観点からエールを続けたいという思いもあります。
――過去のご自身の著作で、代表的なものを紹介してください。
代表的な研究書といえば、『決定版 ナチスのキッチン』(共和国)。文字どおりナチスにおける食の状況を明らかにしただけでなく、ドイツの台所がどう変化してきたか、それに建築学や家政学、経済学などがどうかかわったのかを調べた、ドイツの台所の歴史学です。もう一つあげると、『分解の哲学』(青土社)でしょうか。自分の歴史学研究の基盤となる哲学を論じたものです。農の原理を究極に突き詰めるとここに至るんですね。死骸を土壌に帰したり海に帰したりして、ミミズとか微生物とか菌類とか、分解の役割からもう一度世界を見直そうという本です。
――農業や食に関して、他の著者でおすすめの本をあげるとすると?
多田朋孔さんの『奇跡の集落』(農山漁村文化協会)。著者は京都大学の応援団長だった人で、経営コンサルタントを経て、突然、新潟県十日町市の池谷集落に家族とともにIターンして町おこしをした人なんです。関係人口といって農村は住民だけでなく、そこに関係している都会の人たちや地域の人たちがどうかかわっているかがポイントなんだと、ネットワーク的な人間関係について書かれている。それが廃村寸前だった限界集落を復活させたんですね。
あと100年前のアメリカの小説で『ジャングル』(松柏社)。アプトン・シンクレアがフィールド調査をした上で、シカゴの食肉業者で何が起きているかを書いた素晴らしい小説です。リトアニア系移民が劣悪な労働環境で雇われていて、衛生面も最悪で腐った肉に消毒液をかけて売ったり、ネズミも一緒にミンチにされたり。そうした現実を小説の形で書いて、アメリカで純正食品医薬品法ができるきっかけになった本です。新型コロナでもアメリカやドイツの食肉工場でクラスターが頻発しています。働いている多くが黒人やヒスパニック労働者、東欧移民。食肉加工をめぐる労働の構造は100年たってもあまり変わっていないんですね。それを知るのに良い本です。
それから100年後、エリック・シュローサーというジャーナリストが『Fast Food Nation』を上梓しました。日本語訳は『ファストフードが世界を食いつくす』(草思社)というセンセーショナルなタイトルですが、鮮烈な印象を残すルポルタージュです。肉を生産する人々がいろいろ憂き目にあっている。コロナ禍では、それ以前から苦しんできた人たちの苦しみがより深まったのだということが分かります。
(じんぶん堂企画室 山田裕紀)