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誰による、誰のための、女性の解放か?「エンパワメント」の原風景を語り継ぐ

記事:春秋社

写真 ©橋本明朱花
写真 ©橋本明朱花

楽観・悲観の調律

 結婚とか妊娠とか出産とか性生活とか。性と生殖に関することは、かように、その人がその経験をどのように上の世代から聞いてきたか、どのように教えられてきたかによって、次世代の振る舞いが決まってしまう。(本書18-19頁)

 人生において来るべきさまざまな経験を、どのように「聞いて」きたか。それはその人の生き方に――おそらく本人が思っている以上に――大きな影響を与える。例えば月経。例えば就職。例えば結婚。あるいは妊娠、出産、家事、育児、介護……人生に立ち現われるさまざまな経験を、もし、単に「面倒くさい」とか「嫌なもの」とか、「危ない」とか「怖い」とか、そう思っているのだとすれば、それはなぜだろうか。先の世代からの、あるいはメディアを通じての「呪いの言葉」を耳にする機会に、ともすれば私たちはあまりに“恵まれて”いるのかもしれない。ならば、自分がこれまでに培ったバイアスを今一度見つめ直し、未来への「語り口」を調えていきたい。

 かつてこの国の真逆に位置するブラジルに暮らした経験をもつ著者によれば、日本の人々はその「備えよ常に」の風土的習性からか、あるいは生真面目な国民性からか、つい悲観的に未来を案じるクセがあるという(本書「楽観視」より)。また近年のベストセラー『FACTFULNESS』も伝えるように、先進国と呼ばれる国に生きる人々こそ、「ドラマチックすぎる見方」への偏向性は強いのだという(「世界はよくなっているか」)。ならば、「楽観」はよき薬となる。既成の恐怖心や警戒心の由縁を紐解いて、ひとつの経験のなかにあり得るはずの快さやよろこびにもまた目を向けることができれば、未知の経験と向き合う力も自ずと湧いてくるはずだ。

不幸ではなかった女たち

 先の悲観バイアスにもやや似て、ここまでの女性解放の歩みの恩恵を享受して生きている私たちはともすると、先の時代を生きた女性たちを一律に「不自由であった」とか「不幸であった」と見做してしまう。しかし、本書はこう投げかける。

 解体されていった枠組みは、ない方がよかったのか。枠組みを持って、さらに自由に生きる方法はなかったか。あるいは枠組みはあっても、そこを越えて遠く枠組みの外に幸いを見出すことはできなかったか。枠組みがあった頃の女たちは、みな不幸だったのか。枠組みがあっても、女というのは実にやすやすとその枠組みを越えて、自らの暮らしを生き抜いていた、というふうに見ることはできないか。(本書246頁)

 「枠組みの解体」以前、そこには、たしかにしたたかに、祈りと献身の性(さが)を生き抜いた数多の女性たちがいたこと。そしてその生は、今の私たちに脈々とつながっているということ。彼女たちは助け合い、「産土」すなわち「ふるさと」を離れた先でも、暮らしをととのえ、次世代を育み、先の世代を看取り、逞しく生きてきた。そこに連なる「女性」という在り方、その輝きに、本書は光を当てていく。

フェーズを生き抜く「つよさ」

 その頃のことを思い出そうとすれば「それしか覚えていない」ような、「それの時期」としか言い様のないような、そういう類いの記憶”というものがある。例えば、著者は「弁当フェーズ」と「掃除フェーズ」を振り返る。ご飯を炊いても炊いてもおかずを作っても作っても、それらはあっと言う間にたいらげられてしまって、ただひたすらに息子たちの弁当を作り続けた頃のこと。あるいはとかく家族のために、三軒の家をひたすら掃除して回っていた頃のこと。

 すべてにフェーズがあり、変わってゆく。その中での暮らしの手触り以外に確実なものがあるのか、暮らしを支える以外に愛を伝える方法があるのか。(本書234頁)

 家族への愛を表す術とは、「それしか覚えていない」ほどの没頭における家事、その外にはなかったのである(「家事と幻想」)。

 ここにあるのは、自己実現を志し、キャリア設計に忙しく、「機会費用」の考え方をすっかり内面化して、家事などはできる限り肩代わりしてほしいと願う今の世においては、耳の痛い言葉でもある。「男女共同参画社会基本法」施行から二十年以上を経て、今や女性たち自身が、賃金労働において報酬を得るという意味において「働き」、社会的なパイの配分を得るという意味において「活躍」し(「“機会均等”二十年」)、ところがその一方で、心と体の葛藤をさまざまに抱えているというのが実情ではなかろうか。

被抑圧者の解放により、抑圧者もまた解放される

 もう一度、強さとはなんであろうか。

 女性たちがほとばしるような言葉を得て、力強くなること、言葉にはならなくても、目に輝きが増し、自信に満ちてくること。こういう状態をこそ、エンパワメント、というのだという場に、何度も立ち会ってきた。それは社会的評価とか、消費経済社会におけるパイの配分とか、立派なお仕事をしているとかしていないとか、そういうことと、関係ない。(本書134頁)

 今、女性の「活躍」や「強さ」とは、誰による、誰のための言葉であるか。それは、ほかの誰よりもまず、その者自身によって語られるべき言葉であろう。そして、一人一人に固有の、「強さ」を語る言葉が鍛えあげられる時、それらはもはや、単に「女性の」解放だけを意味するものではないのである。

 フレイレは、被抑圧的な状況を変えるのは、被抑圧者自身であり、そのように変えていくことで被抑圧者は解放され、結果として、抑圧している方もまた、解放されるのだ、といった。そのプロセスしか、ないのだ、と。(本書140頁)

 女たちは、おそらく「幾重にも不本意であった」。それでもなお、つよさとしなやかさをもって、移ろうフェーズの一々に没頭しながら、その生を生き抜いたのであった。それゆえ、「嫁いだ」地において生起する暮らしを、ととのえ、いたわり、育んだ女に、「産土はいらない」。

 フェーズを転じながら、豊かに紡がれてゆく「女」の人生。それを体現するかのような本書もまた、いまだ途上にある社会の「語り口」に、鋭くもあたたかな視座を投じる一冊である。

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