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謎の調査集団「べリングキャット」とは何者か? 創設者みずから語る【前編】

記事:筑摩書房

〈ベリングキャット〉の創設者・エリオット・ヒギンズ(Author photograph by © SKUP)
〈ベリングキャット〉の創設者・エリオット・ヒギンズ(Author photograph by © SKUP)

 ロンドン中心部の地下会議室に政府要人らが急ぐ。COBRA〔Cabinet Office Briefing Room A(内閣事務局ブリーフィング室A)〕危機対応会議が開かれようとしていた。英国本土で化学兵器による攻撃がおこなわれたのだ。どうやら暗殺未遂らしく、スクリパリ父娘はいまも病院で人工呼吸器につながれたままだ。アトロピン〔有機リン剤中毒や神経ガス中毒の治療に用いられる〕を大量に点滴され、鎮静剤で眠らされて、武装兵に厳重に警備されている。英国は対応を迫られていた。疑いの目の向かう先はロシア政府だった──被害者のひとりはロシア軍情報局の大佐だった人物で、英国側の二重スパイとして活動していたからだ。2018年3月4日、英国の静かな都市ソールズベリーで、スクリパリとその娘がベンチでぐったりしているのが見つかった。ふたりとも瀕死の重体だった。だが、モスクワは関与を否定した。

「われわれの同僚〔英国の政治家〕は沈痛な声と深刻な顔をとりつくろい、もしこれがロシアのしたことなら、ロシアが二度と忘れられないような対応をとることになるだろう、と言っている。これは虚偽であり、純然たるプロパガンダ、完全なヒステリーの煽動だ」とロシアのセルゲイ・ラヴロフ外相は語っている。

 しかしロシア政府には、報復としての毒殺事件に関与した前歴がある。有名なのはアレクサンドル・リトヴィネンコの事件だ。この人物もロシア軍の元情報将校で、英国に亡命してウラジーミル・プーチン大統領に対する痛烈な批判を展開していた。リトヴィネンコは2006年11月1日、ロンドンのミレニアム・ホテルでふたりのKGB元工作員と会い、その夜に病に倒れた。数週間後に死亡、死因はポロニウム210による放射線被曝だった。

 偶然ながら、ソールズベリー郊外数マイルの場所に、英国国防省の研究所〈ポートン・ダウン〉があって、この種の毒物の研究をおこなっている。ここの化学兵器の専門家が、66歳のセルゲイ・スクリパリとその33歳の娘ユリアの血液サンプルを緊急調査して原因究明に取り組んだ。その結果、検出されたのはノヴィチョクA234──1970年代から80年代、ウラジーミル・プーチンがまだKGB将校だったころにソ連が開発した神経剤である。皮膚についただけで、失明、呼吸困難、激しい嘔吐、痙攣、ひいては死に至るという劇毒だ。情報分析の結果、ロシアはスクリパリ父娘の通信を傍受していたことがわかった。モスクワに住む娘が、2週間の休暇で英国の父を訪ねる予定だと知っていたわけだ。娘ユリアの足どりを追跡することで、ロシアのスパイは父親の所在を発見したのだろう。

夜のクレムリン。円屋根の建物は大統領官邸(モスクワ)
夜のクレムリン。円屋根の建物は大統領官邸(モスクワ)

「これはロシア国家によるわが国への直接的な攻撃か、あるいは重大な被害を及ぼす恐れがあるにもかかわらず、この神経剤の管理を怠って外部への流出を許したか、そのいずれかであります」 英国首相テリーザ・メイは下院議会で述べた。48時間以内の説明をロシア政府に求めるとし、「誠意ある回答が得られない場合は、ロシア政府による英国への不法な武力の行使に当たると結論します。その場合、対抗手段としてどのような措置をとるか、またこの議会にてその詳細を発表いたします」

 ロシアの政府系報道機関は陰謀論を流し、スクリパリ父娘を本人の意志に反して拘束しているとして、英国当局を非難した。また、問題の神経剤が軍隊級のものだとすれば、なぜ被害者は亡くならなかったのかとも述べている。この主張には二重の効果があり、疑惑と恐怖を同時に広めることになった。つまり、クレムリンが本気でやれば失敗するはずがないと言いたいわけだ。英国はロシアの外交官23名を、スパイの疑いがあるとして追放した。同盟諸国は英国と足並みをそろえ、自国駐在のロシア「外交官」を同じく追い払った。アメリカは60名を国外退去させ、また金融機関や輸出品に制裁措置を発動している。ロシアは、報復として各国の外交官を追放処分にした。

〈べリングキャット〉では、成り行きを注視しつつ参戦の機会を待っていた。ぼくたちは世界じゅうに散らばるネット集団であり、戦争犯罪を調査したり、偽情報をあばいたりしているが、その手がかりになっているのはインターネットで公開されている情報──つまりソーシャルメディアの投稿、流出データベース、無料の衛星画像などだ。いまは虚偽情報がネットにあふれる時代ではあるが、逆説的なことに、事実を掘り出すのは以前よりずっと簡単になっている。

ベリングキャットがネット上の情報を分析、調査し、明らかにしてきた実績
ベリングキャットがネット上の情報を分析、調査し、明らかにしてきた実績

〈べリングキャット〉では、スタッフ18人からなる中核チームが、数十人のボランティアの協力を得てレポートを書いているのだが、それを何十万という人々が閲覧してくれるし、そのなかには官僚、メディア界の大物、政策立案者といった顔ぶれもまじっている。ぼくたちに課題(アジェンダ)はないが、信条はある。「証拠があり噓があれば、やはり人はその違いを気にする」というのがそれだ。

 事件から数か月、セルゲイ・スクリパリと娘ユリアは一命をとりとめたものの、ロンドン警視庁の捜査は難航していた。毒物に曝露された場所はセルゲイ・スクリパリの自宅玄関先と思われたが、そこは監視カメラの範囲に入っていなかったのだ。捜査官らが集まって地元の監視カメラの映像1万1000時間ぶんを視聴し、クレジットカードの支払い記録をほじくり返し、地域の携帯電話の使用記録を調査していたが、そんな捜査の最中に次の毒殺事件が発生した。ソールズベリー地域に住むある男性が、依存症のせいでごみあさりをする破目になり、ニナ・リッチの香水〈プルミエジュール〉の壜らしきものを見つけた。女友だちにプレゼントしたところ、それを手首にスプレーした彼女は重体に陥ってしまったのだ。7月8日には、ついに生命維持装置をはずされている。〈化学兵器禁止機関〉がこの偽香水壜のサンプルを分析し、ノヴィチョクが含まれていることを確認した。

「この神経剤は世界でもまれな化学戦争用の毒物のひとつであり、これほど狭い地域内で二度も発見されるのは偶然ではありえない」と英国テロ対策警察は語っている。この香水壜は犯人が捨てたものと思われるが、なかには何千何万という人命を奪える量の神経剤が入っていた。

ガトウィック空港の鉄道駅
ガトウィック空港の鉄道駅

 事件から半年後、ぼくたちにも使えそうなとっかかりを、やっと警察が提供してくれた。毒殺未遂事件の二日前、ふたりのロシア人男性がガトウィック空港〔ロンドンの南にある国際空港〕に到着する様子を収めた映像だ。空港に到着後、男性らはすぐに鉄道でロンドンからソールズベリーに移動し、問題の亡命ロシア人の周辺をうろついていた。この容疑者の身元確認のために当局は協力を求めていて、それで画像を公開したわけだ。ふたりは「アレクサンドル・ペトロフ」と「ルスラン・ボシロフ」の名で旅行していたという。ロンドン警視庁としては、だれかが身元を特定してくれればと期待していたわけだが、たしかに特定してくれた──クレムリンが。

「このふたりなら身元は判明している。特定できた」 プーチンは言った。「みずから名乗り出て、すべて包み隠さず話してくれると期待している。それがだれにとっても一番だろう。べつに特別なところなどないし、犯罪とは無関係なのはまちがいないと思う。近いうちに明らかになるだろう」

 その「近いうち」は、大統領が要求したらあっという間にやって来た。翌日の2018年9月13日、ふたりの容疑者が降って湧いたように出現し、クレムリンの国際ニュース・チャンネル〈RT〉でインタビューに答えていたのだ。〈べリングキャット〉内部のチャット・フォーラムで盛んにやりとりしながら、ぼくたちはこの放送にかぶりつきになっていた。ふたりのロシア人は無実を主張し、自分たちはただの友人どうしで、休暇が終わる前に英国を訪れ、有名な大聖堂を見に行っただけだと言った。「ペトロフ」は目つきが険しく、人前に引っぱり出されて憤慨しているようだった。「ボシロフ」はおたおたしていて、顔にうっすら汗をかいている。自分たちは暗殺者などではない、フィットネス業界の事業家である、というのがふたりの言いぶんだった。

インタビュアー「あちらでなにをなさってたんですか」
ペトロフ「すごくいい街だから行ってみたらって、だいぶ前から友人たちに勧められてたんです」
インタビュアー「ソールズベリーがですか? すごくいい街だと?」
ペトロフ「ええ」
インタビュアー「どこがそんなにいいんですか」
ボシロフ「観光都市なんですよ。有名な大聖堂があるんです、ソールズベリー大聖堂っていう。ヨーロッパじゅう、というか、世界じゅうで有名だと思います。高さ123メートルの尖塔が有名なんです。時計も有名です。いまも動いてる世界最古の時計で」

ソールズベリー大聖堂(イギリス)
ソールズベリー大聖堂(イギリス)

 このがっちりしたロシア人たちは、毒殺未遂事件の前日にも鉄道でソールズベリーを訪れている。ロンドンから往復3時間だが、このときは30分しか滞在しなかった。雪のため観光どころではなかったからだという。そして翌日、ふたたびロンドンからソールズベリーを訪れる。だが、ふたりはスクリパリの家がどこにあるかまったく知らないと主張した。インタビュアーは香水壜について質問した。

ボシロフ「ちょっとばかげてると思いませんか。男どうしでゲイでもないのに、女ものの香水なんか持ち歩きますかね。税関を通るとき、荷物はみんな調べられるんですよ。おかしなものを持ってれば、ぜったい質問されるでしょう。男のくせに、なぜ女ものの香水をバッグに入れてるんだって……」
インタビュアー「おふたりはGRU(軍の情報部)のかたですか」
ペトロフ(インタビュアーに)「あなたはどうなんですか」
インタビュアー「私ですか。違います。あなたは?」
ペトロフ「違います」
ボシロフ「私も違います」

『ベリングキャット――デジタルハンター、国家の嘘を暴く』(筑摩書房)書影
『ベリングキャット――デジタルハンター、国家の嘘を暴く』(筑摩書房)書影

 内々のメッセージボードでは、ぼくたちの意見は一致していた。このふたりは噓をついている。「高さ123メートルの尖塔が有名なんです」? そんな話しかたをするやつがどこにいる、〈ウィキペディア〉でも読みあげてるのか。英国当局が正体を突き止められないなら、ぼくたちがやってやろうじゃないか。とはいえ手がかりはほとんどない。あるのはふたりの顔写真、そして本名だと主張されている氏名だけだ。

 数日後、ぼくたちは事件を解決していた。

 この大手柄は世界じゅうでビッグニュースになり、それと同時に数々の疑問の声も巻き起こった。我流のインターネット探偵の集団が、どうしてロシアの「暗殺班」の身元を特定できたというのか。その話はそもそも信用できるのか。その連中はどこの人間なのか。だいたい〈べリングキャット〉とはなんなのか?

(後編につづく)

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