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「どこでもドア」の夢は終わらない 小代有希子『テレビジョンの文化史』

記事:明石書店

『テレビジョンの文化史――日米は「魔法の箱」にどんな夢を見たのか』(明石書店)
『テレビジョンの文化史――日米は「魔法の箱」にどんな夢を見たのか』(明石書店)

グローバル文化としてのテレビ

 唐突な書き出しではあるが、私はメディア論の専門家ではない。科学史や技術論は門外漢だ。日米関係史が専門である。この本は、テクノロジーと文化としてのテレビを狂言回しとして、日米関係の性格を検討しなおすものだ。戦後日本とアメリカは、外交、軍事的には堅固な同盟関係を結んできたが、ごく普通の人々は、互いに肩をだいて笑いあう関係ではない。日本とアメリカはいつから良き友人になったのか、または本当に友人なのか、どうもわかりにくい。戦前から今日までの長い時間枠で、日本とアメリカの間にあったテレビを介した交流の軌跡をたどりながら、このことを考えてみたかった。それがこの本の執筆の動機だった。

 テレビ文化はアメリカが作った、とアメリカ人も日本人も考えがちだが、テレビは一国が単独に発明したものではない。先端テクノロジーが複雑に組み合わさってつくりだされる現代文明の利器は、数名の発明家の手に負えるものではない。だが完成すれば、いとも簡単に既成の文化の枠組みを超えて、世界のあちこちの日常生活に根をおろしてグローバル文化となっていく。テレビがまさにそれだった。テレビのアイデアは、世界をつなぐ「魔法の箱」として19世紀末ごろ生れた。地球のあちこちで、夢想家、文化人、エンジニアたちが、遠くにある動く画像を電気信号に変えて離れた地点に送り、それを映像画面に再現する仕掛けが作れないか、そうなったらこの世界はどんなに楽しくなるだろうと同時に考えたのが始まりだ。異なる国のエンジニアや科学者たちの発明や彼らが行った実験成果の組み合わせで、テレビは出来上がっていった。同時期にその実現に向かって動き始めて成功し、戦後世界の二大テレビ大国となっていったのが、日本とアメリカだった。

グローバル文化を共につくった日本とアメリカ

 日本の電子工業界は、欧米先進国の水準に早くから追いついていたこともあり、日本とアメリカのテレビのエンジニアたちは1930年代初期から密接な関係を築いた。イギリスが機械式テレビに力をいれていたのをしり目に、日本とアメリカは共に電子式テレビの開発に邁進し、技術協力を促進した。太平洋戦争で開発は中断されるが、戦後アメリカの技術支援に支えられて、日本はアメリカに次いで世界で二番目に本格的なカラーテレビ放送を始めた。1964年東京オリンピック大会では、アメリカの通信衛星を用いて世界初となるカラー衛星テレビ中継放送を全世界にむけて行い成功。1970年代初期には、日本とアメリカは過半数の世帯がカラーテレビを所有する世界二大テレビ大国となった。

 アメリカも、日本に助けられた。日本メーカーは、国内生産が需要に追いつかないアメリカ市場に、より高品質でコンパクトな白黒・カラーテレビ受像機を供給して、アメリカのテレビ文化の成長を支えた。家庭用ビデオカセットレコーダー(VCR)をアメリカと日本に同時普及させて、テレビをめぐるライフスタイルに革命を起こしたのも日本メーカーだった。アメリカと日本は、テレビを20世紀のグローバル文化として共に開花させた立役者だったのだ。日本科学技術史学会の会長はこのことを、世界史の文脈においても記憶に残すべき社会現象と語った。

 このように素晴らしい話が、なぜ埋もれたままだったのだろうか。その理由にこそ、日本とアメリカの関係の滓(おり、不純物)がある。一つが政府というやっかいな存在だ。戦前こそ両国のエンジニアたちは自由に交流できた。しかし戦後、冷戦が始まると、アメリカ政府はテレビを親米プロパガンダを世界に広める手段にしようとした。ワシントンが日本のテレビ放送開始の後押しをした理由はここにある。東京オリンピックの衛星テレビ中継実現の手助けをしたのも、ベトナム戦争遂行上日本の協力が不可欠だったからだ。日本政府も似たようなものだ。テレビ製造を戦後経済復興成長のための国家の基幹産業として、海外輸出戦略に関与した。両国政府にとってテレビはそれぞれの国益を促進する道具でしかなかったのだ。

縮む物理的距離、縮まない精神的距離

 それでも「魔法の箱」は、遠く離れた人たちの姿を自宅の居間に映し出し、世界が小さくなったことを実感させる。しかし世界の二大テレビ大国となった両国の人々は、テレビを通して相手の姿を知ることに積極的でなかった。相手国に関するドキュメンタリーや報道番組の制作はあった。しかし1963年11月太平洋をまたぐ衛星放送が実現し、リアルタイムで日本とアメリカがつながったとき、互いに相手に何を見せたら良いのか戸惑うばかりだった。日本側のテレビ画面に映し出された最初のアメリカの風景とは、人影が全くない荒涼としたモハーベ砂漠だった。日本側にも妙案はなかった。これも、テレビが華やいだエピソードとして日米交流の歴史に登場しない理由の一つだ。

 アメリカのコメディやバラエティなどに登場する日本人は、でたらめのサムライと芸者ばかりで、もっぱら嘲笑の対象だった。学術的番組でも、歪んだ姿が真実として紹介され、アメリカの人々はそれで満足した。日本にしても、アメリカの制作会社が叩き売りした安手の番組に出てくるのが本物のアメリカだと、人々は信じてそれ以上知ろうとしなかった。日本のテレビ局が制作するバラエティ番組に、アメリカを笑い飛ばすものはおよそ登場しなかった。安保や基地問題に揺れる当時、そもそもアメリカは笑いの対象ではなかったのだ。

 1970年代日本メーカーは家庭用VCRの実用化に成功し、アメリカ市場を席巻した。それが面白くないアメリカ側に、「テレビはアメリカが作った文化だったのに卑怯にも日本が盗んだ」という説が流布した。それでもアメリカの消費者は日本製VCRを求め、輸入増加はとまらなかった。VCRは他の家電や自動車とともに日米貿易摩擦を悪化させ、戦後日米関係は最悪の局面を迎えた。そこに至るまでに、たった一本ですら、日本とアメリカの人々を笑いや涙でつなぐようなテレビ番組は制作されなかった。テレビが日本とアメリカの精神的な距離を近づけるような「魔法の箱」になれなかった原因は、人々の側にもあったのだ。

ここからどこへ

 今日インターネットテレビ、ストリーミングテレビの登場が、かつてのテレビ時代を終焉させつつあるとの声がある。アメリカと日本は共に、新たなグローバル大衆文化の一つを確かに創り出したというのに、「魔法の箱」はその役を果たすことなく消えてしまうのだろうか。今後テレビに替わる新しいメディアが登場するにしても、アメリカ人が日本(そしてアジア)発のコンテンツに違和感を抱き続け、日本人もアメリカに苦手意識を持ち続け、両社会の人たちは、双方向で同じ笑いや涙を共有できるわけがないと思い続けるのだろうか。

 テレビが遠くの人を互いに近づけるのではない。近づきたいと思う気持ちが、人の側になければどんな「魔法の箱」をもっても距離は永久に縮まらない。これは日本人にもアメリカ人にもいえることだ。私が教える大学のゼミ生たちが、「『どこでもドア』を実現したいというような夢だったのですかね」と言った。そうかもしれない。日本とアメリカの間にそのようなドアができたのに、全く使わなかったようなものだ。もったいないですね、と彼らは言った。いやいや、まだ可能性はある。それはあなたたちの世代次第だ。若い読者が、この本を読んでそういうことを考えてほしい。それがこの本を書き終えた今、一番の望みだ。

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