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解き明かされるネオリベラル主義のミッシング・リンク!――『統治不能社会』

記事:明石書店

『統治不能社会――権威主義的ネオリベラル主義の系譜学』(明石書店)
『統治不能社会――権威主義的ネオリベラル主義の系譜学』(明石書店)

「ネオリベ的」なるものの多義性

 わたしたちは日々「新自由主義」という言葉の多義性に忙殺されている。たとえば大学・学校関係者を例にしよう。最近の「10兆円大学ファンド」に代表されるように、大学運営を市場の価値観へと同調させるよう強く迫る、市場の至上主義とも言うべき潮流に押される一方で、旧共産圏出身者から思わず郷愁の言葉が漏れ聞こえるほどの数値化、計画化とその報告作成に日々圧されてもいる。この計画経済的運営を「実質化」すべく学長および理事会に強権を与え、やりようによっては終身学長制をも可能にする独裁的なシステムが文科省のお墨付きのもと、当たり前のように導入されて久しい。市場主義と独裁、そして計画主義の奇怪なキメラである。しかし、このキメラの各部分をそれぞれネオリベ的と形容すれば矛盾を来すのも、これまた当然ではある。本書のスタンスは、その矛盾に巻き込まれた層にとっても、この多義性に明解な道筋を付けてくれるはずだ。

『統治不能社会』を貫く3つの基本線

 まず本書の解釈の基本線となるものを3つあげてみよう。

 第一に、さまざまな定義の乱立するネオリベラル主義のなかから、仮に名付ければシュミット=ハイエク主義とでも呼ぶべき路線を軸に据えることである。すなわち、権威主義とリベラル主義、一見すると水と油のようなこのふたつを重ねたようにも見えるこのタイトルは、じつは同語反復だ、そしてこのふたつを同語反復にするのがこの路線でのネオリベラル主義なのだ、という視点を措定することである。

 日本でも近年、おなじようにヘラーを出発点とするヴォルフガング・シュトレークの『資本主義はどう終わるのか』が訳出されたが、同書でもこの視点をとることで、資本主義が民主主義と福祉国家を介して結びついていた時代がいかに儚い歴史的一局面に過ぎなかったのかが、説得力をもって論じられている。

 さて、シュミット=ハイエク主義を単純化すれば、それは程度の差はあれ原則的に、国家ないし社会が経済領域に介入すれば全体主義、そうしなければリベラル主義と見なす主義、ということになる。つまり、福祉や所得再配分といった政策は自動的に全体主義に属する。なぜならそれは労働力価格も含む自由で健全な競争にもとづいた価格設定の妨げとなるからである。したがって、ある権威主義的な政権、たとえばピノチェト政権のような軍事政権が強権をもって福祉や所得再配分を求める社会を圧殺してくれるなら、それはリベラル主義的政権なのだ。ハイエクにとって民主主義が権威主義より好まれるのは、端的に経済は手つかずにしてくれるありがたい賢人王がそうそう登場するわけではないからに過ぎない。

 第二の基本線としてあげるべきは、ポランニーの「社会防衛」の視点である。シュミット=ハイエク主義が導入されたのは、単純に経済が社会からの介入をはねつけるためだけではなく、社会の側にみずからの負担を外部化するために必要だからである。ここでは社会なるものが維持してきた世界は、所有的個人主義から離れた共有地に過ぎない。それゆえ、社会の外部化のためには、つねになんらかの形で相互扶助のシステムをもつ社会にたいし、ときにはその扶助のシステムにただ乗りし、ときにはその扶助のシステムを「既得権益」として排除し、所有的個人主義の枠内に回収する必要がある。シュミットの言葉を借りればそれは「奪取する」というかたちで遂行される。この奪取のベクトルは、リベラル主義のプリズムを通せば経済では競争に、思想では論争に分光されるのだが、最晩年のシュミットがニヒルに嗤うように、そうした見せかけの上品さの背後にある奪取を上回るような生産はない。自国民にしかけられた継続的な内戦が上品にウォッシングされた産物であっても、つまるところは奪取である。

 だがもちろん、社会もまたそれにたいして反撃を用意する。本書でもたびたび引用される『大転換』におけるポランニーが提示するこの外部化と防衛のシーソーゲームが、本書を貫くもうひとつの基本線である。

 しかし、反撃策のつもりがいつの間にか経済の構成要素に取り込まれ、その一部として機能するようにしむけるための、さらなる再反撃も用意されている。このかけひきが、本書の第三の基本線であり、その最大の特徴というべきものだ。それはより歴史的なものと言ってよく、本書で紹介された表現を流用して、「ネオリベラル主義のミッシング・リンク」と言いたいほどである。

人間を「統治」するための実践的な戦略を暴く

 「ネオリベラル主義の精神史」では、この教義はリップマン・シンポジウムからオルドリベラル主義、そしてモンペルラン協会を経て、ハイエクやフリードマンらの影響のもとチリで、そしてサッチャー政権、レーガン政権で地歩をかためた、と説明されることがおおい。だが、ネオリベラル主義の「イデオロギー的なアウトライン」だけでは不十分だ、というのがシャマユーの主張である。

 とりわけ企業組織論を中心に、官民さまざまなレベルでのネオリベラル主義と親和的な実践がおこなわれる。それらは、さまざまな意味で「統治不能」なもの、つまり経済に介入し野放図に肥大する国家を、市場原理にしたがわず治外法権のように価格メカニズムに抵抗する労働者を、どうあっても「再統治」するための、実践的な諸戦略である。そしてそれらが逆輸入されるかたちで政策決定の場に導入され、同時にこの再統治システム内での「自己統治」へも導入される。その経緯の、「実践的なアウトライン」を描くために、シャマユーはビジネス書からノウハウ本にいたる闘争の資料を参照する。それこそが、オルドリベラル主義とナチズムの関係のあと、戦後の福祉国家の影に隠れていたネオリベラル主義がついに一九七〇年代に復権するまでの空白、そして一介の経済理論だったものが政策に降りてくるまでの空白を結ぶリンクなのだ。

 シャマユーのこの著作は、ノーベル賞受賞者からビジネス書や経済誌まで、というその構成によって、ネオリベラル主義がこうした「概念」をどのように実装したのか、どう奪取したのか、その流れを批判的に、しかし具体的に示してくれている。

【「シュミット=ハイエク主義の時代――訳者あとがきにかえて」より、一部改変のうえ、掲載しています】

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