歳月の中に――希望の光、再生への旅(下)
記事:春秋社
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先ごろ、沖縄の本土復帰に関する外交交渉の経過をテレビで見る機会があった。今年は50周年の出来事の多い年である。
沖縄を知る最初は、中学生時代に見た映画『ひめゆりの塔』だった。悲惨な状況下に生きる少女たちをまともに見られないで、何度目をつむったことか。昭和30年代は『きけ、わだつみの声』に代表される戦争の遺稿集やそれに連なる作品が文学、芸術の分野に多く溢れた時代だった。
私が沖縄を訪れたのは二度しかなく、最初は1995年、琉球王家の出身で彦根の井伊直愛氏に嫁がれた井伊文子さんの沖縄訪問行事に便乗して、慌ただしく資料館や首里城を駆け抜けて終った。二度目は2017年秋、戦跡を巡るツアーに参加し、思いを消化出来ないまま帰って来た。本土では沖縄のことがあまりに忘れ去られている。誰もが見て見ぬふりをして過ごしている。それでいいのか。
敗戦間近、本土を護る防波堤として全島に犠牲が強いられた沖縄の地。容赦ない艦砲射撃に曝され、唯一の地上戦を強いられた人々の恐怖と絶望は、恐らくウクライナの人々と同様か、それ以上であったことだろう。しかも、味方である日本軍から蔑視されスパイ容疑で殺された人さえいた。この沖縄の地を、本土の人々は一人残らず、頭を垂れて巡礼しなければならないのではないか。私は自戒を込めて、今も密かにそう思っている。
50年前、もう一つの大きな出来事は中国との国交回復であった。文化大革命の最中、自身の健康不安を抱え文革の標的とされる中で、周恩来は隣国日本との国交回復のために尽力してくれた。田中角栄と硬い握手を交わした光景を、感慨深く眺めた人は少なくないだろう。
とりわけ中国に残された孤児や、婦人たちにとって帰国の道が開かれる悲願の日でもある。敗戦の年、3歳の私が中国に残され、27年を経ていたとしたら、日本語も話せない私は肉親を探し得ていただろうか、肉親は迎えてくれただろうか。戦争の飛沫を浴びた人々の苦悩は、その人生全てを覆っている。それだけにウクライナの人々、ことにロシアへ連行された人々のこれからを思わずにはいられない。
姉の玉田澄子が自身の著『大地の風』の出版を機に、中国東北部の高校生支援活動に関わったのは、まさに戦後50年の年であった。
その「微風の会」は毎年、奨学金を持参して中国を訪問した。当時、中国の農村はまだ貧しい環境にあり、多くもない奨学金を喜んでくれる親たちがいた。しかし、中国の経済は5年ごとにめざましく発展し、北京オリンピックから数年して国内総生産で世界第2位の経済大国となった。微風の会では高校生支援を終了し、数年前から日本で学ぶ中国の留学生に、友好の印として奨励賞を贈り、交流を続けている。
国交回復から50年、現在、日本にも散見する中国批判はどれほど正確なのだろう。眠れる獅子がいよいよ起き出したとしても、中国は動かすことの出来ない隣国である。国と国とは互いに礼を尽くし、よき隣人として対応してほしいと願うばかりである。
50年前のもう一つの記憶に連合赤軍浅間山荘事件がある。事件後、榛名山のアジトで12人もの同志を粛正し死亡させていたことが判明した。それは学生運動とは全く無縁の私にさえ、ある種の失望をいだかせる事件であった。
そのころ私は夫の転勤で広島から関西に来て7年、やんちゃな子ども二人の子育てに明け暮れていた。関西に来た昭和40年当時、日本の住宅事情はまだ粗末で空き部屋を探すのが一苦労だった。そのアパートは玄関兼台所が二畳、部屋は六畳と三畳、押し入れ一畳。トイレと風呂は共同だった。大阪万博で訪れた田舎の親戚があまりの狭さに目を見張り、長く語り草になったと聞く。
ところが50年前の春、家族は新しく出来た公務員官舎に引っ越すことになった。小さいながら風呂付きトイレ付き3LDK。自覚はなかったが、日本経済が少しずつ上向き始めていた時期なのだろう。
庶民の生活が落ち着き、やがて異常な好景気が続き、一億総中流となった。それがまた嘘のように衰退して久しい。
その中でずっと学生運動は鳴りを潜め、日本の若者たちはどこに行ったのか、姿が見えなくなった。若者の鋭利さには時に不安を覚えることもあるが、その純粋さと明日を拓く力に期待を懸けつつ待ち続けてきた。若者たちが言ってくれないものか。戦争に加担して豊かになるより、謙虚に信頼される国を目指そうと。
50年は瞬く間に過ぎ去った。今年はそれらの出来事をしみじみ振り返る年になりそうである。