マヤ文明の驚くべき天体観測と暦の話 『古代文明と星空の謎』
記事:筑摩書房
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マヤ文明の宇宙観(図1)についてみてみましょう。
マヤ文明の人たちが考えた宇宙は、天を13階層、地上を9階層に見立てて、大地は四つの神で支えられています。
数字も特殊で、二十進法になっています(図2)。十進法の倍ですから、ある程度、合理的ではあります。
「0」を表す記号は特徴的ですが、1からあとは単純な点と線で表されます。
1から4までは点の数で表され、5になると横棒になり、6から先はその上に点を加えます。10は5の横棒が2本です。11からは、この2本の横棒の上に点が加えられ、15は横棒が3本、16からはその上に点が増え、そして、20は「0」を表す記号の上に点が一つです。
この20の上の点は1つで20を表していますので、30は横棒2本(10)の上に点が一つです。そして、40は「0」を表す記号の上に点が二つです。
このように、数が20増えるごとに特徴的な「0」が出てきて数字表記が単純化されるので、二十進法と考えられているわけです。
マヤ文明の暦は非常に優れていました。
暦は三つあります。
1周期が地球の公転周期と同じ365日の「ハアブ」と呼ばれる「太陽暦」。1周期が260日の「ツォルキン」と呼ばれる「儀礼暦」。そして、紀元前3114年の基準日からの経過日数で表す「長期暦」です。
太陽暦(ハアブ)については、エジプトのピラミッドのところでも解説しましたが、1か月が20日、1年が18か月なので、20×18=360で、それに5日を足して、1年を365日とします。
日にちの数え方としては、各月は0(ゼロ)から開始します。先ほど紹介した二十進法は、このひと月の日数「20」が基本になっていると思われます。地球の公転周期は、正確には365・2422日ですから、1年ごとに0・2422日ずつずれてきます。その誤差は適宜、調整されていたようです。
この誤差の調整に四苦八苦していたエジプトに対して、なぜ、高度な文明を持つマヤの人たちは「適宜調整」などという悠長な方法ですませていたのでしょうか。
エジプトでは、小麦や作物に甚大な被害を与えるナイル川の氾濫を精密に予測することが何より大切であったため、正確な暦が必要不可欠でした。しかし、マヤ文明が栄えた場所は熱帯雨林で、雨季と乾季の予測の必要性が多少あっても、作物を植える時期に関して非常に精度の高い暦が必要かというと、そうではなかったと思われます。
ですから、エジプトのように細かな誤差の調整を必要としていなかったのではないかと推測されます。
儀礼暦の1周期は、260日とされています。マヤ文明では「20」と「13」が神聖な数字であることは、すでに紹介しました。そこで、儀礼暦では、この20日周期と13日周期がそれぞれ独立に変動していき、260日を数えていたようです。
マヤ文明では、365日暦の太陽暦と260日暦の儀礼歴(ツォルキン)が独立でカウントされ、二つの組み合わせで日付を表していました。
ちなみに、365と260の最小公倍数は18980ですから、18980日(太陽暦で約52年)でひとめぐりして、また1年の始まりの日が一致します。これを「カレンダーラウンド(Calendar Round)」と呼びます。
マヤ文明ではもう一つ、暦のようにその周期が意識されている天体がありました。
金星です。
この金星が太陽と地球と一直線に並ぶ周期「会合周期」をマヤの人たちが理解していたのではないかという話があるのです。
「地球と金星の会合周期」の話を始める前に、なぜ、マヤの人たちは金星に注目したのかについて、少し考えてみましょう。
実は、その理由は、まだはっきりとはわかっていません。
ただ、天文学から言えることは、金星は、夜空でとても目立つ存在であることです。昔から「明けの明星」「宵の明星」と言いますが、いわゆる一番星は大抵「宵の明星」の金星です。金星はいわゆる内惑星なので、地球から見ると、太陽から大きく離れることはないため、真夜中に見えることはありません。
また、金星は、その輝きが明るい。月を除くと最も明るい天体です。恒星の中で一番明るいシリウスでもマイナス1・4等ぐらいですから、金星のマイナス4等は非常に明るい。みなさん、驚かれるかもしれませんが、金星の光で影ができるほどです。
たとえば、街灯のない真っ暗な河原に行って、明けの明星が出てきた直後、朝焼けが始まる前の、いわゆる〝天文薄明〞の頃に、白い紙を持っていって、手を紙の前にかざしてみてください。金星の明るさで白い紙の上に手の影ができているのがわかります。私は何回かやったことがあるのですが、本当に影ができますので、みなさんも、暗いところに行って試してみてください。
話はそれますが、一般的に「影ができる天体」は三つあると言われています。
太陽、月、金星です。
しかし、1996年1月に「百武彗星」を発見したアマチュア天文家の故・百武裕司さんに教えてもらったのですが、もう一つ、影ができる天体があります。
天の川です。
百武さんに「オーストラリアでは天の川で影ができる」という話を伺って、次の日、私は国立天文台で天の川の輝度分布図を出して、積分してみたら、マイナス3等になりました。「これほど明るいのなら、もしかすると、影ができるかもしれない」と思った私は、2004年、プライベートでオーストラリアに行った際に、ちょうど新月で、天の川の中心の一番明るいところが真上に来たとき、白い紙を置いて手をかざしてみたら、見事にぼやっとした手の影が白い紙に映りました。天の川でも影ができるのです。
日本では、天の川の一番明るいところが南の空の低い位置にあるので、オーストラリアほどではありませんが、機会があったらぜひ、一度、やってみてください。天の川も本当に明るいので、その光で影ができたら、きっと感動するでしょう。
話を「地球と金星の会合周期」(図3)に戻しましょう。
「会合周期」の「会合」とは、中心となる天体を回る二つの天体が、その中心の天体から見て同じ方向に来る現象です。
中心となる天体を「太陽」、その周りで回っている二つの天体を「地球」と「金星」で考えると、太陽と金星と地球がほぼ一直線になる現象のことです。
太陽の周りを回る地球と金星の場合、金星より遠い公転軌道で回る地球が1周するのにかかる日数は365・24日、地球より内側の公転軌道で回る金星は224・70日です。つまり、金星の方が地球より速く回っています。よって、金星は地球に追いつき、追い越し、また追いつき、追い越すことを繰り返しているのです。
このとき、金星が地球と太陽の間に来てほぼ一直線上に並んだ状態を「内合」、金星が太陽を挟んで地球と反対側でほぼ一直線上に並んだ状態を「外合」と呼びます。
この「内合から内合」あるいは「外合から外合」までの周期を「会合周期」と呼びます。
金星の会合周期は584日で、内合付近で金星が太陽の光で見えない期間が約8日、同じく外合付近では見えない期間が約56日ですので、残りの明けの明星が見える期間が約260日、宵の明星の見える期間も約260日ということで、ここから儀礼暦の260日周期が定められたという説もあります。
もう一つ、マヤ文明の人たちが金星の会合周期を理解していたと推測される話があります。
ドレスデン絵文書と呼ばれるマヤ文明の古文書の46ページから50ページまでは、金星について書かれています。その各ページの左下には「236」「90」「250」「8」という数字があり、合計は「584」です。
これらの数字がそれぞれ「明けの明星が見られる期間(236日)」「外合付近で金星が見えない期間(90日)」「宵の明星が見られる期間(250日)」「内合付近で金星が見えない期間(8日)」そして「金星の会合周期(584日)」を表していると考えられているのです。
52年で太陽暦と儀礼暦がひとめぐりする「カレンダーラウンド」についてはすでに説明しましたが、この金星の会合周期も合わせたカレンダーラウンドについても、考えてみましょう。
太陽暦が104年経つと「365日×104年=37960日」です。
儀礼暦が146年経つと「260日×146年=37960日」です。
金星の会合周期が65サイクルすると「584日×65サイクル=37960日」です。
このように、太陽暦、儀礼暦、金星の会合周期がすべて37960日(太陽暦104年)で1年の始まりの日が一致する「カレンダーラウンド」になるのです。
よって、マヤ文明では、この「37960日(太陽暦104年)」の周期が重要な意味を持つと考えられています。
三つめの暦である「長期暦」は、紀元前3114年8月11日を基準にして、そこからの経過日数で表す暦です。
日数の単位は「キン」「ウィナル」「トゥン」「カトゥン」「バクトゥン」と上がっていきます。
1キン=1日。1ウィナル=20キン(20日)。1トゥン=18ウィナル(360日)。1カトゥン=20トゥン(7200日)。1バクトゥン=20カトゥン(14万4000日)です。
そして、13バクトゥン=187万2000日=約5125年となり、この13バクトゥンが過ぎたとき、長期暦がいったんリセットされます。
この長期暦が遺跡に残っている場合も多いので、遺跡の年代を特定する資料になっているそうです。
この章では、主にマヤの暦について解説しましたが、マヤ文明そのものが非常に面白いので、興味のある方は、ぜひ、いろいろと調べてみてください。