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戦争体験の「伝承」について  ―安田武『戦争体験』より

記事:筑摩書房

雨天の明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会=1943年10月21日(朝日新聞社)
雨天の明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会=1943年10月21日(朝日新聞社)

 戦争体験を、現代にどう生かすか、ということについて、それを一般的な問題に還元し、たとえば、それを生かし得るとか、生かし得ないとかいう争点で、論争することに、ぼくはまったく興味がない。というのも、それが一般論として、どういう結論になろうとも、ぼく自身にとっては、現在のぼくの全存在が、戦争体験を抜きにしては成立しないような、そのような体験として、ぼく自身にぬきさしならぬものであって、早い話が、いまここに、このような文章を書いているぼくの思索のすべて、行為の全体が、戦争体験抜きにはありえようもないからである。

 そのようなぼくにとって、戦争体験を、現代にどう生かすか、という設問ほど無意味でバカげたものはなく、どう生かすか、というよりは、いっそのこと、どう殺すか、といった方が、あるいは、ぼくにとって、重大な公案であるかも知れない。何故ならば、ぼくがまだ呼吸のあるうちに、自分のなかの戦争体験を抹殺することに成功すれば、その時こそ、ぼくは大悟(たいご)、解説の妙境(みょうきょう)に参入できるのではないか、と考えることもあるというわけである。

 事柄が、しかし抜きさしならぬ形で、何よりもぼく自身の、内面の問題であるかぎり、一般論あるいは抽象論としての論争に、ぼくの関心がとどかぬのは、やむを得ないことなのではあるまいか。人びとにとって、それがどうであろうとも、ぼくにとっては重大なのだから、人びとがどういう仕方で、それを重大と考えるか、ないし考えないか、ということは、窮極のところ、ぼくにはどうでもよいのである。

 従って、戦争体験の伝承というテーマも、ぼくには、あまり興味のないことである。まして、伝承することが、あたかも義務であり、責任であるかのごとき言い方にたいしては、それが同世代からの発言であれ、また若い世代からの要請であれ、まったく無視して差し支えないものと思っている。ぼくは、押しつけがましい啓蒙主義者が大嫌いである。説得ということは、それが成立するためには、いくつかの前提条件が必要であるし、その上、説得ということ自体に、ある限界がつきまとう。所詮、人は誰からも説得されぬし、誰をも説得しえないものではないか、とぼくは思っている。

 思想の科学研究会の「転向」研究グループのメンバーになって、かれこれ五、六年たったと思うが、近く、この研究の下巻が刊行されて、グループとしての研究は、一おう終止符をうつことになろうが、たとえグループ研究が終っても、ぼく自身は、転向問題に関する勉強をやめないつもりである。戦時中、ぼく自身が、もの心ついて、文学だとか思想だとかいうことに、稚ないなりの関心をもちはじめたのは、昭和十二、三年のころであったから、いわゆる、「転向」時代は、一段落ついていたわけであったが、当時、そういう時代――ぼくが、もの心つく一つまえの時代の状況がわかっていなかったということが、昭和十八年の学徒出陣に到るまでのぼくの思索や思想を、どんなに貧しいものにしていたか、ということが、戦後になって、はじめてわかった。

 すでに述べたように、戦争体験ということが、ぼくの存在にとって、ぬきさしのならぬ意味と重さをもっている以上、ぼくが、この問題を考えつめる過程で、昭和八年に始まる大量「転向」時代の全状況は、これもまた、ぬきさしのならぬ課題として、ぼくの前にある。ぼく自身は、戦前の転向問題から、まったく自由な立場にあるが、それだからこそ、一時代まえの日本の知識人たちの思想と行動を、何らかの形で拘束した、その問題の全貌と秘密を知りたい。つまり、ぼくは「転向」体験を継承したいのである。それを継承しないかぎり、ぼく自身の課題である戦争体験の処理が、どうしてもうまくゆかないらしい――そう考えるのである。およそ歴史の状況に断絶などありえず、まして、一国、一民族の体質化した精神構造や思考の型が、突如として断絶することなど、あり得よう筈もないのである。

 何を継承するかが緊急の課題であって、何を伝承するかは、二の次のことである。それに、伝承ということが可能になるためには、継承したいと身構えている人びとの姿勢が前提であろう。継承したくない、と思っている者に、是が非でも伝承しなければならぬ、と意気ごむような過剰な使命感からは、ぼくの心はおよそ遠いところにある。戦争体験を現代に生かすも生かさぬも、それはまったく、それぞれ各自の問題であって、余人の立入るところではない。戦争体験から何も学びたくないと思う者、あるいは何も学ぶことはないと考える者は、学ばぬがよいのである。

安田武『戦争体験 ─一九七〇年への遺書』(ちくま学芸文庫)
安田武『戦争体験 ─一九七〇年への遺書』(ちくま学芸文庫)

 書かれ、伝説化された歴史の裡には、書かれず、伝説化もされなかった無数の書かれたかも知れない事実の可能性が死んでいる。死んでしまった筈のそのような可能性から、やがて復讐される、その亡霊に悩まされることもあり得る、ということをおそれぬものは、戦争体験にかぎらず、およそ歴史のすべてから、何も学ばぬがよい。若い世代は、いつの時にも、記憶をもたぬものだ。人類の最大の愚劣は、この事実のうちにあるが、また人類の未来が、いつもバラ色の夢を描いていられるのも、おなじ事実、つまり記憶をもたぬからであり、そして忘れられていくからであろう。祝福された人類のこの愚劣な栄光のまえに、ひとりの人間の善意と説得なぞ、はじめから無意味なのである。無意味な努力にかかずらうことは、もうゴメンだと思う。それこそ、戦争体験からぼくが学んだ教訓のひとつにほかならないからである。

(安田武『戦争体験――一九七〇年への遺書』より転載)

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