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ビートルズの「髪型考」【全文公開】 クレイグ・ブラウン『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』より[前篇]

記事:白水社

ピーター・バラカン氏推薦! クレイグ・ブラウン著『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社刊)は、英国の名物コラムニストによる、モザイク状の150章から浮かび上がる異色のポートレート。2020年度ベイリー・ギフォード賞受賞。
ピーター・バラカン氏推薦! クレイグ・ブラウン著『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社刊)は、英国の名物コラムニストによる、モザイク状の150章から浮かび上がる異色のポートレート。2020年度ベイリー・ギフォード賞受賞。

[「訳者あとがき」はこちら]

The Beatles Statue in Liverpool[original photo- Atanas Paskalev]
The Beatles Statue in Liverpool[original photo- Atanas Paskalev]

髪型考

 1964年のクリスマス、その年7歳だったわたしと兄弟は両親からビートルズのかつらをプレゼントされた。当時ベスナル・グリーンにあったある工場が毎週3万台製造するビートルズのかつらは、店舗では1台30シリングで販売された。だがそちらは繊維の高品質のかつらである。わたしたちがもらったのは安物の仮面のような薄手のプラスチックを成形したもので、値段は7シリング6ペンス、もろいくせに縁が尖っていて、頭にかぶると痛かった。上を向くと、かつらの下の縁がうなじに食い込むし、首を横に傾げると耳の後ろの皮膚が擦れる。

 それにこの「かつら」は、少しも髪の毛のように見えなかった。実際、フリスビーの代わりに使えそうだった。同じ年、サンタクロースはわたしのクリスマスの靴下に磁石で遊ぶビートルズ髪型ゲームも入れてくれた。取り出してみると、ゲームでもなんでもない。ルールもなければ遊び方の説明書も入っていない。ビートルズの4つの頭の輪郭を描いた絵、磁石、無数の黒い鉄粉が入っているだけ。いくらかでもゲームと呼べそうなことをするには、磁石を使って鉄粉をあるべき場所に動かし、ビートルズっぽい髪型、もしくは4人が脱毛症に罹ったらきっとこんな髪型にちがいないと思うものになんとなく近づける。それから55年経った2019年春、まったく同じ磁石で遊ぶビートルズ髪型ゲームの状態のよいものが1250ポンドで売りに出されていることを、ある広告を見て知った。

『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社)P.220─221より
『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社)P.220─221より

 ビートルズの音楽を聴く前、わたしがかれらについて知っていたのは髪型だけだった。それとあの「ヤー・ヤー・ヤー」。誰もがビートルズの髪型の話をし、家庭ではそうした会話がしまいに口論になることもしばしばで、若い世代が断固支持すれば、年輩の世代もそれに負けじと断固反対する。口論はビートルズのメンバー自身の家族内でも起こった。「あの髪、あればかりはいただけない、どうしてもだめ」とジョンのミミ伯母さんは、ビートルズがテレビに出始めてまもない1963年1月13日に「サンク・ユア・ラッキー・スター」を観て文句を言った。

 その年の暮れ、モントゴメリー陸軍元帥、通称「モンティ」は国会審議で初めてビートルズの髪型に言及した人物となった。貴族院で行なった兵役義務を果たす若者たちを支持する演説──「かれらがマラヤで、韓国で、そしてまたマウマウ団を相手に、いかによく戦ったかを見よ」──を元帥はこう締めくくった。「最後にひとつ述べておきたいことがある。もし兵役に就くとなれば、ビートルズも髪を刈らなければならなくなるかもしれません」。2、3週間後の12月9日、労働党議員エムリーズ・ヒューズがモントゴメリーの指摘に答えた。

エムリーズ・ヒューズ氏 なぜかれらが髪を切らなければならないのか、わたしには理解できません。そうした論拠がなぜ若者たちを今日の陸軍に入隊させることにつながるかも理解できない。なぜ兵士は、定まった型に髪を切らなければならないのでしょうか? なぜ兵士には髭を蓄えることが許されないのでしょうか? (笑い)我らが同僚にして教養深き友人、ノーサンプトン選出の議員[パジェット氏]はお笑いになる。わたし自身、陸軍入隊を志願する若者はなぜ、陸軍に入れば髭を剃らなければならないと言われるのか、海軍であれば髭を生やしたままでよいというのに、と訊かれたことがあります。

 これが最初でもなければ最後でもないが、ビートルズの髪型をめぐる議論は脱線して他のどんな議論にも転じる。

ロバート・グロヴナー卿(ファーマナとサウス・ティローン選出、アルスター統一党) 閣下は兵士のなかに髭を蓄えることを許されている者があることをご存知か?
エムリーズ・ヒューズ氏 そのことは承知しておりません。閣下がのちほどその点について議論を展開なさるおつもりであれば、わたしはこの問題に関する専門的な情報を喜んで拝聴いたします。
レジナルド・パジェット氏(ノーサンプトン選出、労働党、イギリス陸海軍報道官) 友人である閣下が関心をお持ちであれば、兵士が髭を生やすことを認められていない伝統的な理由は、髭は相手の首を切り落とすときに摑むのに便利なものであり、船上ではそうした事態がはるかに少ないためであります。

 ビートルズの髪型の起源は通常、1961年10月12日か13日の午後、パリのボーヌ通り29番地でのこととされる。グループのなかでは最も裕福なジョンが、21歳の誕生日のお祝いにエリザベス伯母さんから100ポンド──現在の貨幣価値に換算すると2000ポンドかそれ以上──をもらった。ジョンはこのお金をポールと一緒にパリへ休暇に出かけるのに使うことにする。当時ふたりは揃ってエルヴィス風に髪をオールバックにして撫でつけ、中央の前髪を額に垂らしていた。

 パリに着くと、ふたりはハンブルクで知り合った旧友ユルゲン・フォルマーを訪ね、一緒に街をぶらつく。フォルマーは前髪を下ろして切り揃えていた。これは本人に言わせると、「ハンブルクのブルジョワのけったくそ悪さ」への反発とのこと。これを真似れば、パリ左岸のものにしやすい娘たちの受けがよくなるかもしれないと期待して、ジョンとポールはフォルマーの髪型を真似ようとした。もっともポールの記憶では、「フォルマーのは、実際はもっと片方に寄っていた。長髪のヒトラーみたいなものだね」。オテル・ド・ボーヌの屋根裏部屋で、ユルゲンはふたりの散髪を引け受けた。まずポールの髪を切り、続いてジョンに取りかかる。翌日、ホテルのコンシェルジュは床に散乱する大量の髪を見つけて、悲鳴をあげた。

 ジョンとポールが「モップトップ」を採り入れたのはたしかにこのときだったかもしれないが、髪型自体の起源はどこにあったのだろう? スチュ・サトクリフの風変わりなドイツ人の恋人アストリット・キルヒャーは、それは自分のしたことだと言うこともあれば、それを否定することもある。「わたしがあの髪型を創ったなんて言うひとがいたけれど、まったく馬鹿げてる! ドイツにはあの髪型の男の子が大勢いた」。

Stuart Sutcliffe in 1961
Stuart Sutcliffe in 1961

 アストリットが半年前にハンブルクでスチュの髪をおかっぱ頭にしたのは間違いない。ピート・ベストは、ジョンとポールがふたりしてそれをからかったことを覚えている。「あれはやりすぎだと、おれたちはみんなそう思い、あいつの前髪を指さして笑い転げた」。そう笑われて当然ながらきまり悪くなったスチュは、髪を後ろに撫でつけるが、ピートによると数日のうちに元に戻し、そのときジョージが真似をした。

 アストリット自身は事の起こりを2000年かそれ以上遡り、1960年のジャン・コクトー作『オルフェの遺言』に出演したジャン・マレーの髪型を真似たと主張した。あれは「きっと古代ギリシア人に触発されたのだと思う」。だが、ビートルズ探偵のなかでも誰より根気強いマーク・ルイソンは、この主張に疑問を投げかける。ルイソンは1957年にまったく同じ髪型をしたユルゲン・フォルマーを撮った写真を発掘した。コクトーの映画が公開される3年近く前のことである。

 髪型の系図は時の流れに紛れて失われたかもしれないが、世界に及ぼした影響は否定のしようがない。ピート・ベストも問うたように、「アストリットがスチュの髪でちょっと試してみたことがきっかけとなって、やがて世界の男性人口の半分が同じことをするようになり、インドネシアのような心配性の国々は法律まで作ってビートルズの髪型を禁止するなんて、いったい誰が想像しただろう?」

【Early Years of THE BEATLES:左から2人目がピート・ベスト】

  

 ジョンとポールは10月15日にリヴァプールに帰ってきた。ニール・アスピノールがふたりを次のライヴ会場に連れていくために迎えに行った。「ジョンを迎えに行くと、前髪を下ろしていた。でもこれは何かあるなと思ったのは、ポールを迎えに行ったときだ。ポールも前髪を下ろしていただけではなくて、なんと家からスキップしながら──あのポールらしい恰好で──出てきて、髪を指さしている、もともとそういうことにはおとなしくしていられない質だから。ポールの髪型も変わっていて、それで我々も気がついた」。ポールはみなに「お前の髪、変になったな」と言われたのを覚えていて、それにポールとジョンは「いや、これが新しい流行さ」と答えた。

 そして、そうなった。1950年代、英国の若者たちはヘアクリームをべったり塗った髪をオールバックにして、それを憂鬱な都会風と思った。ビートルズの髪型は髪を前に下ろして梳かし、固めず、ボーイッシュで生意気、そして晴々としていた。2年もしないうちに、ビートルズの髪型は自由と若さの新時代のシンボルとなり、その結果、いくつかの学校や機関、国家では規則や法律によって禁じられた。1963年11月、ギルフォードのクラークス・グラマースクールの校長がビートルズの髪型を禁止した。「この愚かしい髪型は、子供たちの最悪の部分を引き出す」と校長は激しく非難した。「あの髪型は子供たちを脳たりんに見せる。違反する子供が見つかったら、全生徒の親に手紙を書いて、わたしを支持するように依頼するつもりだ」。ところが匿名の「上級生」が禁止令に対して不服そうな態度をとる。「禁止したって、ほとんどの生徒は言うことを聞かない」とその生徒は「サリー・アドバタイザー」紙に語った。「馬鹿げてると思う。ビートルズは素晴らしいし、かれらの髪型に何も悪いところはない」。

【The Beatles Arrive In New York for their First US Visit, 7th February 1964】

 

 数か月のうちにその熱狂はアメリカに広まった。1964年2月7日、作家のトム・ウルフはビートルズの合衆国到着を目撃した。「ビートルズがケネディ空港に着陸すると、前髪を下ろした若者たちが到着ロビーを駆けていくのが見えた。そのとき60年代が本当の意味で始まった」。ジョージ・マーティンはいい大人がビートルズのかつらを被って五番街を歩く姿を目撃したのを覚えている。「とにかく、おかしかった」。ニューヨークだけで1台2ドル98セントのビートルズのかつらが1日に2万台売れた。

 その頃、14歳のブルース・スプリングスティーンはニュージャージー州フリーホールドの〈ニューベリーズ〉のレコード売り場に入り、『ミート・ザ・ビートルズ』を見つけた。それは──スプリングスティーンは今でもそう信じて疑わない──「史上最高のアルバムジャケット……『ミート・ザ・ビートルズ(ビートルズに会おう)』としか書かれていない。それこそまさにおれのしたいことだった。半ば翳った4人の顔は、ロックンロールのラシュモア山だ、それから……あの髪型……あの髪型ときたら。あれは何だったのだろう? 驚いた、衝撃を受けた。ラジオでは4人の姿が見えない。あの影響をいま説明するのは不可能に近い……あの髪型の影響は」。

 ブルースはすぐさま自分の髪型をビートルズみたいにした。そんなことをすればどうなるかはわかっていた。あの髪型にするには、「寄ってたかって貶され、侮辱され、危ない目に遭い、爪弾きにされ、よそ者扱いされるのを受け入れなければならない」。父親は息子のしたことを見て、「最初は笑った。おかしかったからだ。それから、そんなにおかしくもなくなった。そして怒った。最後に厳しい質問をぶつけてきた。『ブルース、お前、おかまか?』」

 同じ年頃の仲間の大半も、容赦ないことにかけては父親と少しも違わない。それでもひとりかふたり、ブルースと同じように、ビートルズのためなら世間の嘲りなど撥ねのけようと覚悟を固めた者もいた。そこでかれらは、嵐に立ち向かう船のように怯まず張った。「侮辱は無視し、できるだけ実力行使は避け、すべきことをした。[…]日が昇るたび、最後の対決を迫られる可能性がつきまとう」。

 

 その20年前、フランク・シナトラもかれ自身の「シナトラマニア」を惹きつけた。娘たちはシナトラのコンサートで狂乱状態になり、ホールを揺るがすほどの悲鳴をあげた。1962年に遡れば、作曲家のジュール・スタインがシナトラは「ロックンロールを打ち負かした」と断言したものの、この予言はどうやら今となっては時期尚早に思われた。49歳のシナトラはチャートにシングルを1枚も送り込めず、アルバムがたった1枚、10位にあるばかり。対照的に、ビートルズはシングルの上位5位とアルバムの上位2位を占めた。シナトラにはこれが耐えがたい。「シナトラは心底ロックンロールを憎み、ビートルズを憎み[…]軽蔑しか感じなかった」と「シナトラ一家」の友人ロック・ブリンナーは記す。ブリンナーは当時17歳。ビートルズがラジオにもテレビにも出てくるたび、シナトラは子供たちにスイッチを切らせた。「長髪を見ると、シナトラさんは気が変になった」と召使いのジョージ・ジェイコブズは回想する。「新しい音楽がどんなに優れていようが、そんなことはお構いなし。[…]シナトラさんにとっては、どれも麻薬をやるための立派な口実にすぎなかった**」。

 

  •  ロック・ブリンナー(1946─)はユル・ブリンナーの息子。歴史家、学者、ハードロック・カフェの共同創業者。

  • ** 耳に馴染んだのか、それともご都合主義か、シナトラもやがてビートルズを認めるようになり、「イエスタデイ」と「サムシング」の2曲をレコーディングし、後者を「この50年間に書かれた最高のラヴソング」と評した(けれども、作者をレノン=マッカートニーと誤った)。1968年の夏には、モーリン・スターキー22歳の誕生日に、「ザ・レディ・イズ・ア・トランプ」を単発で吹き込むことにも同意した。変更された歌詞には、「彼女はリンゴと結婚した、ポールとしてもよかった/だからレディはチャンプ」の一節があった。このシングル盤のマスター音源は廃棄され、現存するのはただ1枚きりで、それも所在不明。以来、このシングルは「タイムズ」紙のダニエル・フィンケルスタインによって「史上最も稀少で最も価値のあるレコード」と形容されている。

 

[ビートルズの「髪型考」後篇につづく]

【クレイグ・ブラウン『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社)所収「53 髪型考」より】

 

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