草の根メンズリブにとっても示唆に富む一冊 杉田俊介 ――澁谷知美・清田隆之 編『どうして男はそうなんだろうか会議』書評
記事:筑摩書房
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本書は社会学者の澁谷知美と「桃山商事」の清田隆之をホストとし、他に五人の男性たち(西井開、中村正、平山亮、前川直哉、武田砂鉄)と、「これからの男」のあるべき姿を考えるための「会議」を行った記録である(清田は第1章のゲストでもある)。読者は気軽に雑談を聞くように、本書を手に取ることをゆるされているだろう。すべての語り手に共感する必要もないだろう。抵抗を感じつつ、ゆっくり飲み込むべき部分もあるだろう。きっとそれでよい。私もまた私自身の関心に従って本書を自由に読もう。
澁谷は「はじめに」で、現代は男性の「被害者性」(男の生きづらさなど)と「加害者性」(男性特権など)が「同時に語られている時代」である、という点を確認する。しかしもちろん、男女の間に構造的な不公正が厳然とある以上、男は誰もが加害者であり被害者だ、という一般化による相対化は危うい。重要なのは、その場合の被害とはいかなる水準であり加害とはどんな水準か、それらはどんな風に交差して絡み合っているか、を具体性をもって言語化していくことだろう。つまり加害と被害の複雑さをそのままに、いかに重層的に繊細に語りうるか、だろう。
たとえば男性は差別ではなくとも、いじめ/からかい/いじりなどの暴力を被ることがある(西井)。それは複雑な傷を形成する。しかし男性たちにはそもそも、被害体験を被害として語るための豊富な「語彙」がなく(中村)、また語り合いのための「場所」がない。一般に男性は感情表現が下手で、身体をケアできず、他者の話を傾聴できない、などの事情もあるだろう(清田)。
自らの加害に向き合うのは、極端に難しい。たとえば暴力は認めるが加害は認めない、という形での加害性の否認があるという。確かに殴ったが俺は悪くない、と(中村)。DV加害男性の臨床現場などでは、男性はかつて自らが虐待や体罰を受けた経験を他者に反復しているケースが多く、一度自分の傷を受け入れねば適切な加害の認知もできないという。奇妙なことに、「加害者にきちんとなる」(同)ことが重要なのだ。
内なる傷を繊細な形で言語化することは、自らの権力性や加害性を縮減していく道へと開かれている。たとえば平山は「相手とのパワーの非対称性を支配・従属の関係に転化させないような男性のあり方」を示す概念として社会学者カーラ・エリオットのいう「ケアリング・マスキュリニティ」を紹介している(ただし本書の中で平山の男性批判は最も攻撃性が強く、読者によっては使用上の用法・用量に注意が必要だろう)。
男性たちは――「語彙」と「場所」を含めて――自らの男性性を問い直すための集団的な「文化」を下から形成していかねばならないのだろう。澁谷は問いを特定の自助集団や臨床の場に限らず、「一般の男性同士の関係」に拡張することを重視しているようだ。私は個人的に、メンズリブとは個人の内省と、社会構造の変革、それらのジグザグな実践的過程であると考える。そうした意味での草の根のメンズリブ・ムーブメントが今や必要であり、本書はそのためのヒントの種を読者に多様にもたらしてくれる。
ただし私たちは、もはや「ポスト男性学」的とも言うべき罠にも警戒せねばならない。それはたとえば、男らしさの鎧を脱ごう、イクメンや草食系でいこう、男も弱さを語ろう、男もケアの主体になろう……等々のスローガンが「よいもの」として語られながら、構造的・経済階級的な問題がスルーされてしまうことであり、あるいは「自己反省する男」の姿勢が周囲へのマウンティングとして権力的に機能してしまうことだ(近年の「ポスト男性学」的なもののポピュラー化を示す例としては『シン・エヴァンゲリオン』や『ドライブ・マイ・カー』がある)。だとすると、男性たちがたんに反省や自覚を目指すだけでは足りないのだろう。言い淀みや失語と共に個人としての問いに対峙できているか。来るべきメンズリブ文化は、個々人のそうしたかけがえのない実践を通して少しずつ耕されていくのだろう。
(「ちくま」9月号より転載)