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男が男を省みる 加害性と疎外の複雑なねじれ 批評家・杉田俊介

昭和の勤め人の帰宅風景。「男性学」という言葉が定着しはじめるのは1990年代で、元号は平成になっていた=81(昭和56)年、東京都内

 近年、「男性学」的な書籍が数多く刊行されている。男性学とは、女性学やフェミニズムを受け止めつつ、男性が主体的に生き方を省みたり、制度や社会構造の問題点を問い直したりする学問や思想だ。国内では1990年代半ばごろに言葉として定着しはじめ、各地で市民講座が開かれ、メディアで紹介されてきた。近年はその新たな展開を迎えていると言えるだろう。

 性、障害、人種などの「多様性」を尊重することは徐々にグローバルな理念になりつつある。国家や企業もこれを積極的に取り入れはじめた。この流れについてはフェミニズムやLGBTの「ポピュラー化」と呼ばれることもある。70年代のウーマンリブやエコロジー、80年代のフェミニズムなどは多数派から新奇の目で見られたりもしたが、状況が大きく変わりつつある。

 近年の男性学や男性性研究の興隆もこうした多様性のポピュラー化の流れと関連する。90年代には「男らしさ」の「鎧(よろい)」を脱ぎ捨てようと言われ、2000年代後半にはフリーター男性などの「生きづらさ」に光が当てられた。これに対し、現在、多数派の男性には加害性や「男性特権」があり、意識や生き方の内省では足りず、社会変革へ向けた行動が必要である、とされる。

語りがたさ超え

 とはいえ、有害な「男らしさ」の呪縛から「降りる」べきだと言われるものの、それに代わる男性の生き方のモデル(規範)はまだまだ模索中というのが現状だ。そもそも男性の生きづらさや不自由を積極的に言葉にすることは、すでにある性差別の無視や軽視につながりかねないため、男性が男性問題を論じることには独特の「語りがたさ」がある。それに耐えられず、女性やマイノリティーを敵視したり、「多数派こそが被害者だ」と主張したりするケースも見られる。男性たちがこうした形で闇落ちすることなく、粘り強く自分と社会を変えていくためには、男性学のさらなる展開が必要だろう。

 「草食系男子」という言葉を定着させた哲学者の森岡正博は、『感じない男』で、なぜ自分がミニスカや制服に欲情するのかを自分事として分析した。そして男たちの中にも自己肯定感の欠如や、自分の身体は汚いという嫌悪感があり、ゆえに「男らしさ」に執着し、それが様々な歪(ゆが)みや加害性として現れる、という構造をえぐりだす。身近な男の欲望を見つめつつ、文明論的な問いへと開かれた一冊だ。

 「ぼくらの非モテ研究会」のメンバー西井開(かい)の『「非モテ」からはじめる男性学』は、非モテ意識に悩む男性たちの背後にある複雑な要因を繊細に探る。男性は「からかい」や「いじり」の対象になっても、被害を被害として認識できず、人間関係を維持するために積極的にそれを受け入れてしまいがちだ。そして「差別」とまでは言えない「周縁化」の暴力によって生じた傷や疎外感を、モテへの執着で埋めようとするのである。

新たな形を模索

 これまでにも男性問題を鋭く小説で描いてきた星野智幸の『だまされ屋さん』は、性差別や高齢者の孤独、移民社会化などが複合的に交差する現実における、男らしくない男たちのよるべなさに迫っている。そして家父長的でも母権的でもないような、新たな家族の形を模索していく。現代の男性学的な苦闘の最前線と言えるだろう。

 これらの著作から感じるのは、たんに「自分の意識を変えよう」でも「社会が変われば問題解決する」でもなく、男性の加害性と傷の複雑で繊細なねじれに目をこらしながら、自分と社会を同時に変えていこうとする、という姿勢ではないだろうか。男性たちの悪戦苦闘はいまだ進行中である。=朝日新聞2022年2月5日掲載