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批評とは何か? 「ポスト」クリティークが叫ばれる時代に改めて問い直す(杉田俊介)

記事:作品社

黒田清輝〈読書〉(部分)(1891) 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
黒田清輝〈読書〉(部分)(1891) 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

一対一で、対峙する

 批評とは何か。若い頃から批評を志しながら、恥ずかしいことに、いまだによくわかっていない。

 ただ、次のことは考える。批評の原点には、一対一で対象に対峙する、という関係性がある。素朴で孤独な営みである。それは依然変わらずある。

 対象はもちろん小説作品に限らない。ただ一人で、数多くの優秀な人間が関わった総合芸術のような巨大な作品にも向き合わねばならない。考えてみればそれはいささか異様なことでもある。めまいを覚えるような圧倒的な無力さがあるだろう。

 しかし思えば、批評という営みのある一断面は、そうした無力さと切り離せないのではないか。既存の一般的な価値判断に頼れず、自分にとっての美的な価値を自分の言葉で創造し、産出しなければならないのだから。

批評と社会、「ポスト」クリティーク?

 たとえば私は『戦争と虚構』(2017年、作品社)という本で『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』『ガルム・ウォーズ』等の2016年に公開された一連の映像作品を論じてみたことがある。それらが現代文化の一つの最前線であると感じたからだ(この他に、作品社からは「ポリティカル・フィクション批評」のシリーズと呼べるような一連の作品が刊行されている)。

作品社「ポリティカル・フィクション批評」シリーズ
作品社「ポリティカル・フィクション批評」シリーズ

 次のようなことを書いた。『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」に象徴されるように、これらのポリティカル・フィクションは、政治や社会の問題と大衆的な娯楽性を高度な次元で融合させていた。とはいえたんに震災や原発、差別の問題などを取り込んでいる、というだけではない。

 そこには、SNS等によって政治や社会の描き方が観客・ネットユーザーの議論を呼び、それがさらに作品の価値を――その娯楽性や享楽の強度を――高めていく、という構造があった。だから、現実と虚構が反転し合うようなその循環構造それ自体が批評されねばならない。そう考えた。

 作品批評と環境批評が分かちがたいのだ。それは「ポストクリティーク」と呼ばれる状況とも関わるのだろう。それは以下のような状況である。長らく人文学的な批評の分野では、作品の深層(真理)を読み解き、隠された権力や暴力の構造を明らかにし、何らかの形で社会に影響を与える、ということが期待されてきた。

 しかし今や、大文字の固有名(カント、フロイト、マルクスなど)による批評・批判とSNSの匿名の呟きのフローは、かなりの程度までフラットになっている。批評の価値は無限に相対化されていく。ある意味で誰もが批評家になった、とも言える。

 そうした過剰流動化された状況の中で批評に意味を持たせるために、男性中心的なオンラインサロンや「文芸誌」的な伝統芸能の場(花園)に閉じこもるか、当事者性を武器にした情動による集団性を形成するか、という手法が近年は目立つようだ。しかし、どちらもそのままでは、それ自体が批評の強度を切り崩していく。

扇動でも、動員でもない「新しい」言葉を

 批評とは何か、今もそれはわからないと書いたが、一つ言えるのは、それは他人を扇動する言葉、動員する言葉、何かをわかったことにする言葉、それらとは対極にあるものである、ということだ。批評の原則の一つは自らの足元の内省にあるとしても、ホモソーシャルな共同性を維持強化する内省ではなく、自分(たち)の閉鎖性を外へ開いていくような解放的な形での内省があるはずである。

 ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポターは『反逆の神話』で、消費社会批判や陰謀論とも共鳴する「反逆の神話」(カウンターカルチャー)は、それ自体がつねに資本と消費の論理に取り込まれていく、と批判している。そのうえでヒースは、『啓蒙思想2.0』では、次のように述べる――認知科学や進化生物学などの21世紀的な知見に基づく新しい啓蒙主義を再起動させるべきだ、と。

 しばしば、批評と研究の間の制度的な境界線が融解し、批評は次第に研究の一部に組み込まれていくだろう(むしろアカデミックな研究者がジャーナリスティックな批評家の役割を担っていくだろう)、と言われる。それはそれでよい。

 さらに今後は、実存的な印象批評や素朴な社会反映論の側面はますまず意義を失って、エビデンスベースの啓蒙的な文学理論(認知科学、進化生物学、分析哲学などに基づく文学理論)が重要視されていくだろう。そう言われる。もちろんそれもそれでよい。そうした流れの中では、あらためて、自然科学や実証主義とは異なる固有の問いを人文学の中に確保しようとする新カント派的な姿勢が大事になってくるのかもしれない。

「一般的なもの」に抵抗して

 しかし、それでも、批評という素朴で孤独な営みは、圧倒的な無力さの前に投げ出されるという不安を消せないだろう。そうした不安と表裏一体のものとして、たった一人で、徒手空拳で、素手で、対象に向き合っていく、という面白さがあり続けるだろう。既存の価値判断に頼れない場所で、自分の判断に賭けて固有の批評的な価値を提示する、むしろそれを創造する、という孤独な喜びは変わらずあるだろう。

 日本の現代的な批評の始祖と言われる小林秀雄もまた、そもそも、詩や小説ばかりを論じていたのではなかった。音楽や絵画や骨董や勾玉を論じたり、彼なりに文学運動の場を形成したり、戦時下には中国の戦地へ行ったりしていた。それら諸々の活動を含めて、小林の批評活動はあった。批評対象を拡張することや、未知の批評方法を模索することと不可分だったのである。

 そして小林の批評の言葉は、マルクス主義や物理学などの当時の「科学」との緊張関係の中にあった。「一般的なもの」に回収されない特権的な個体性が当たり前のように期待されていたわけではない。「一般的なもの」に侵食され、押し潰され、人間の固有性なるものが砂に書いた文字のように消えていく中で、その流れに呑まれつつその流れの意味を問い続けること、そうした形での内省的な抵抗を続ける場所、そこに批評の言葉が生まれていった。

たった一人で、無力に、自由に――

 私はつまらないことを書いている。古色蒼然たることを書いている。しかし、つまらなかろうが面白かろうが、原点を確認しておかねばとも感じる。

 たった一人で、無力に、自由に、既存の何の価値観も正しさも前提せずに、批評対象に向き合うこと。自分にそれがいつも出来ているとは思えない。しかし、根本的にそうした感覚を忘れたくないとは思う。そうした批評の原点は、今後も解消されずに残るだろう。

 批評の言葉は、何らかの新しい価値や意味を他者にわかりやすく伝えるため、というだけのものではない。自分の内なる病や狂気をも宿した言葉。一般化の流れに呑み込まれながら一般化に執拗に抵抗し続ける言葉。自分ですら知らなかった未生の自分とその言葉をこの世界に産み落とすこと。そうした批評の原点を忘れないでいる必要を感じる。今あらためてそう思う。

※本稿内で紹介された作品社「ポリティカル・フィクション」批評シリーズのうち、以下のものは、一部が無料公開されています。
杉田俊介『戦争と虚構』(「はじめに」pdf)、『ジョジョ論』(「序文」pdf)藤田直哉『シン・ゴジラ論』(「」pdf)、笠井潔『テロルとゴジラ』(冒頭部
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