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ぜんぶ忘れちゃう――阿部大樹『Forget it Not』刊行記念エッセイ

記事:作品社

『Forget It Not』(阿部大樹著、作品社)
『Forget It Not』(阿部大樹著、作品社)

大半のことは忘れるわけじゃないですか。

でも忘れないように日記を書いたり
写真を撮ったり
ときどき思い出して再確認するわけですよね。

寂しいからだと思うんですよ。

あったことを忘れるのが私は寂しくて、
というのは、忘れたら、
いてもいなくてもいいって宣告されるみたいで。

「忘却に抗って」、とか
そういう雄々しいのではなくて
ただ個人的に寂しい気持ちになります。

『バグダッド・カフェ』を観たけど覚えてないし
『重力の虹』も覚えてないなら
何もなかったのと一緒じゃんってなりませんか。

時間旅行して誰か殺して消しても
つつがなく同じ世界のまたやってくるのが
SFによくあるギミックですが
そういう小説は
ふつうは厭世的な結末になるようです。
それはそうだろうなと、思いませんか。

そんなこと考えだしたのは
医学生をやっていた頃で、
それからは落ち着かない学生生活でした。

卒業して精神科医になると、
今度は忘れても仕方ないどころか、
忘れられてナンボという仕事です。

骨折とか胃潰瘍とかと同じように
精神的な不調もほとんどは
数ヶ月で軽くなっていくもので
それを何年間もずっと、
通院だとか診察だとかが患者さんの生活の
「大きな一角」を占領しているような状況は、
医者の腕に疑問符がつく事態です。

しばらくの間を一緒にやりとりしたとしても、
またしばらくしたら忘れられて、
何もなかったように過ごしてもらうために
医者がいます。

うまくいかないことがあっても、
何回か通院して軌道修正できたら
むしろ忘れてほしい。
たまたま担当になった医者なんて
まっさきに忘れられて、
それが名誉であるはずです。

学校を出ると賃労働が日々の大半であって、
私の場合はそれが精神科医ということですが、
忘れられてこそなんだというのは、
頭では理解できていても
実感としては、例の寂しさがあるもので、
だから仕事以外のところで
それを紛らわす必要に駆られるわけです。

そういう実存的な不安は、
フロイトに倣うまでもなく、
しばしば性的な問題行動にもつながります。
それは避けたい。

そのうち
書きもので紛らわすようになりました。
書きものといっても、
文学ではなくて論文です。
論文はどうやっても時間がかかるから
余計なことを考えなくて済むし
書きあがればモノとして残るから、いいですね。
論文には寂しさがありません。

翻訳もいいです。
だれか大昔の人が考えたことを延々と
ほんとうに延々と辿る作業ですが、
これも時間がかかってハッピーだし、
やっぱり終わればモノが手元に残ります。
満足感がありますね。

即物的な人間なので私は、
考えたことが活字になってモノになると、
なかったことにはなるまいと安心します。

土に還っても大丈夫
メンタル衛生、守ってこ。

はじめての本が出たときには、
少なくとも一冊は国会図書館に残るそうだし
日本政府が転覆されない限りは大丈夫だと
胸を撫で下ろして、
はじめて英語論文を書いたときには
人類がダメにならない限り安泰だと喜んで、
ほっとして眠りました。

自作の改変について

編集者に少なくとも2つ
小見出し入れるようにと言われたので
ここで話を変えますが、
自分の書いたものに
また延々と手を加えつづける人がいますね。
有名どころだとナボコフでしょうか。
ロシア語で書いた本を英語に自分で翻訳して、
手を入れて、その逆もやって、という作家。

あるいは『中二階』とか
『なんとなく、クリスタル』みたいな
注が本文であるみたいな小説。

前段と大いに矛盾しますが、
書いたモノに手を入れたくなる気持ちは
よく分かります。僭越ながら

死んでなかったことの証拠として
あれこれ書き残したものは、
確かにその出版時点までは
生体認証してくれますが、
でも出版以降も自分は生きているので、
そっちは証明してくれないわけですよね。
その点で不十分です。

なのでこの路線で行くと、
新しいものをイチから書き始めるか、
あるいは既にあるものを改訂するか、
ということになります。

性欲 in a wide senseを、
つまり自分が死んだときに
何もなかったことにされる恐怖心を、
文を書いてなんとか発散していたわけですが、

気が済むと、
心境の変化を書き加えたいとか、
言いさしたことを思い出したり、
そのうちイチから文章を
また書き始めるにしても、
いま手元にあるものに
赤字をいれたい気持ちも出てくるものです。

新しい本

それで、これまでに書いた学術論文と
思いつきの評論文というかエッセイと
いくつかの書評とか解説文を、
去年くらいから整理するようになって
この一年は改訂作業と後書きの添加ばかり
ずっとやっていました。

ここで冒頭に戻るんですが、
忘れてるんですよね。
文章を書いたとき自分が何を考えていたか。

なので書かれたものを、
誰か他人が書いたモノみたいに思って
読み出そうとしますが
思っていたほど楽でなく、
ジョイフルでもなく、
ぼーっとしてると
じりっじりっと例の寂しさ怖さがやってくるので
やっぱり落ち着かない時間でした。

あー
解脱したいねー。



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