声を大にしたくなるまえに——『ことばの力 うたの心: 吉本隆明短歌論集』の少しだけ先を生きている
記事:幻戯書房
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いま、空咳でコンコン、ゴホゴホやエヘエヘ、カハカハと表現するのであれば、その表現は世界的な感染症の蔓延を引き受けて提出される——もしくはこの情況を一括する音があるのかもしれない。これは地球からみれば情報的にも考古学的にも地層をつくっているといえる。未来からつかまれるこの時期の一群は世界的に括り込まれる可能性を予感していなくてはならない。生活への不安や怒りや鬱や躁などの微睡んでむず痒いような感情はヨーロッパ的な段階とその前後周囲の人類に共通していることだろう。感情は意識と無意識を問わない。だからこの情況で先端にいる以外ない書き手たちが迷惑を被っているとかんがえることは正統のように思われる。はやく治療薬をつくって安心させろとほかの学問へ文句を言ってもかまわないだろう。つまり純粋に表現史へ前衛的であろうとする意図が世界的な原因によって断念されねばならないことがあるということだ。とはいえ、それはほんとうだろうか。あらゆる前衛であらざるをえない書き手を承認乞食どもと呼んでみるばあい、それら乞食は世界的な影響の直撃のなかで情況の残飯を集めて肥えているのである。これはみごとに歴史の発展と対応しているのではないか。またそれだけにかれらは承認乞食なのではないか。
名前も高さもよく知らない山に登って、頂上にあるガイドをみながら景色を眺めるていどでゆるされるのなら、現在は「節操なし」という柔軟なことばが伸びきって文学も美術も生活もなんでも囲んでしまったという印象を受ける。承認乞食どもは喜んでその残飯からたくみな技芸をみせては表現史を先へ進めている。そうなると分野の線引きは作者を軸にして失われてゆくほかないだろう。言い方を悪くすれば、出しゃばりが多いということだ。承認乞食が出しゃばり、承認乞食どもがそれを励ますから節操なしの違和感はないものと心情化する。そしてまた逆説をいうとこれも発展なのである。乞食どもはひじょうに都合の良いあらゆる技芸をゆるしてくれる土壌が必要であったし、そのなかでは美術における日本画と油彩画や詩歌における短歌や現代詩という線引きを感覚的に失うことができねばならなかった。他人に見つめられて文句を言われないまでに場が育たねばならなかった。もっといえば双方ともに文句を言い合っても耐えられるような孤独がもともと備わっていなかったといえるところまで個人がゆかねばならなかった。
わたしはこのあらゆる溶け合いを必然的な結果であるとかんがえる。たとえば、詩は音のイメージから書かれるところへ来て黙読へ定まり、ふたたび朗読のように音の実態を含むイメージの舞台を手に入れた。じぶんの独創がおおくの他人を巻き込んだ。舞台はたちまちほか分野にのみ込まれて音楽や舞踏を招き寄せたりした。そしてただひとりでに詩はそれら舞台を技芸としてはじめからつくり出せるまでになった。つまりこの情況へなんの線分をもつことなく、名づけることができないまでになったのである。しかし、これを表現の歴史そのものとかんがえるのはまちがっている。表現舞台の複合や融合、合体は外面史である以外ないからだ。その意味で承認乞食どもは表現の内的な深化と作者のなかへ引かれている固有な線分を過去へ置き忘れるという発展の遅延を体現してくれている。表現自体は紙のうえだろうがゴミ箱だろうが関係ない。重要なのはつぎのことだ。
歌人は短歌的形式によるというただそれだけの理由で、形式上生活脈的、または民俗的であらざるをえない。そして、時代的な実生活者としての歌人は、いつも形式によって先取りされたものと、時代的な個とをくみあわせ、矛盾させ、たたかわせるということにならざるをえない。(「斎藤茂吉」『ことばの力 うたの心』)
表現の外面の発展は貴賤における貴の歴史的機能に似ている。それは歴史を引っ張ってみずから没落し賎民を段階的に引き上げる。承認乞食どもが頑張るほど歴史は発展して表現史を先へ進めるのにちがいない。であるならば、あとから追いついてゆかねばならないものがなんであるのかは明白であろう。民俗的なものが時代的な変容を被って形式を脱皮しようとするところの個人はいかにして無意識を傷つけるだろうか、外面の発展軸へは付随も反発も停滞も引き起こすのだ。そうして個人の表現が形式を超えるという過剰さが個の無意識にはある。
ただ最後に強調しても足りないことを書かねばならない。ことばの蔓延の下には死があり、現在、それはなおさらだということだ。そうした蔓延の下にある死を、情況の影響にある死を、わたしたちはむげにしてはならないという理想をかかげながら、挫折を受けいれてゆくという不可避を歩んでゆくのだ。現在。だんだんと「節操なし」というところで線分の固有性が良くも悪くもくずれて来ている。こうした情況に一介の表現者がそれぞれ耐えられるかどうか、もしくは承認乞食どもおのおのがどこまでへばらずに前衛的でありえるか、ほんとうの批評が読み手にあずけられている。