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神田神保町をポリフォニックに描く   鹿島茂『神田神保町書肆街考』書評(評者:カニエ・ナハ)

記事:筑摩書房

鹿島茂氏の大著『神田神保町書肆街考』がこのたび待望の文庫化。単行本にはなかったあとがきが付されている。解説は仲俣暁生氏
鹿島茂氏の大著『神田神保町書肆街考』がこのたび待望の文庫化。単行本にはなかったあとがきが付されている。解説は仲俣暁生氏

 大著だが夢中になって一気に読み終えて、いま神田神保町が私の前に、全く未知の街のようにも、途方もなく懐かしい街のようにも、新たに立ち上がっている。この本のジャンルはいったい何なのか。歴史書、地理書、伝記本、推理小説、文学評論、あるいは……そのどれでもあって、どれでもない。あらゆるジャンルを包含、あるいは超越して、「(鹿島茂による、)神田神保町についての本」としかいいようがない。

神田、とくに神保町について書いてみようと思う。ただし、エッセイ的にではなく、社会・歴史的{ソシオ・イストリック}に。つまり、世界にも類を見ないこのユニークな「古書の街」に関して、それを産業・経済・教育・飲食・住居等々の広いコンテクストの中に置き直して社会発達史的に鳥瞰してみようと構想しているのである。

 と書き出される本書は、まず時代を幕末にまで遡って、当時まだ書店など一軒もなかったこの街がやがて世界に類のない「本の街」になるための礎がいかにして形成されたか、そこから現在までを入念に辿り探っていく。

 鹿島氏は執筆のきっかけについて、

平成15(2003)年から21(2009)年までの6年間、神田神保町一丁目に住み、毎日のように徹底的に歩き回ったことによる。これによって、空間に関する身体的把握が可能になった。

 と書いているが、氏のこの身体感覚は、書物のなかの歩行にまで及んでいて、この土地に関する記述は一文字たりとも見逃さない、とでもいうように、時代もジャンルも異なるさまざまな書物・文献のなかから、この土地に関する記述を採集し、あくまで「本」のことを中心に据えつつ、そこにつながる無数のテーマに沿って、さまざまな文章の引用、つまりはさまざまなひとの声の交響する、神田神保町を主題としたポリフォニーを響かせている。

 氏によってこの本に召喚された、数十名におよぶ証言者あるいは登場人物(政治家から教育者、小説家から詩人、そしてこの街の書店・出版社の創業者から従業員まで、実に多種多様)は、そのひとりひとりがこの街にとってかけがえのない存在であることを示すように、その出生まで遡って丁寧に繙かれていく。そうして発せられる彼ら彼女たちの声は、著者の声と響きあい、時空を超えて対話をしながら、この街の深いところからの証言を、読者に届けてくれる。

東京都千代田区神田神保町(2019年11月4日)
東京都千代田区神田神保町(2019年11月4日)

 あなたが小説好きであれば、この街に生まれ育った永井龍男をはじめ、坪内逍遥、夏目漱石といった文豪たちによるこの街の描写から彼らの小説の新たな魅力を発見するだろうし、あなたがもしこの街に数多あるいずれかの大学(あるいは予備校)に縁のある方ならその学校の歴史について新たな視点から知ることができるだろうし、あなたが鉄道ファンならかつてこの街を走っていた都電の音を聴いて歓喜するだろう。

 詩書きである私はといえば、たとえば宮澤賢治、草野心平、岩田宏といった詩人らがこの街で書いた詩が、この本の中で放つ新たな輝きに、魅了された。極めつけは折口信夫の詩と、そこで描かれる、彼がこの街で偶然、柳田國男の著作に出会ったエピソード。

 この本のなかでくりかえし描かれるのは、本とひととの出会いが(あるいは本を介したひととひととの出会いが)、そのひとの人生を大きく動かし、ときに歴史をも動かしてきたこと。とりわけ印象的だったのは、大戦のとき、出征先にてある兵士とその上官が、神保町と本とをめぐる会話によって、束の間、しかし深く、心を通わせるエピソード。本が、ひとの命を救うこともあるのだ。

 戦災や火災そして震災に見舞われながら、それでも途絶えることなく、というか、むしろそれらを好機として、神保町の古書店街が発展してきたことも知る。そのために奔走し奮闘した古書店の創業者や店員たちの知恵や努力から、私たちは、当時とはまた違った困難さの今日を生き延びていく術を、学ぶことができるかもしれない。

 この類稀な街の類稀なひとたちが、この本を開けばどの一頁にも、生き生きと躍動している。

(PR誌『ちくま』2017年3月号より転載)

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