江戸の料理書に学ぶ 「江戸前芝浜」店主・海原大 ――『江戸 食の歳時記』(松下幸子 著、飯野亮一 監修)書評
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
東京の芝で「江戸前芝浜」という和食店を営んでおります、海原と申します。私どもの店では、江戸時代の料理と、郷土食としての江戸東京の料理を味わっていただいております。
ただそう申し上げても、ぴんと来ない方も多くいらっしゃると思います。江戸東京を代表する料理としては、寿司、天ぷら、蕎麦、うなぎ、すき焼き、各種鍋料理の店があり、それぞれ古くから続く名店があります。しかしいわゆる和食店で江戸ないし江戸前を売りにしている店は今やほとんどないのですから。
そうなった原因として、関東大震災や戦災で、東京にあった古くからの料理屋がなくなってしまったことが挙げられます。ですので、江戸東京の味の生きたお手本は、それぞれのご家庭で作られているお惣菜の味などにはあるかと思いますが、料理屋としてはほぼ皆無です。幸い、私は、江戸料理の名店として名高かった「なべ家」の福田浩先生の薫陶を賜ることができ、また、江戸時代から続く割烹「八百善」の十代目、十一代目からも手ほどきを受けることができましたが、私どもが店でお出ししている料理の多くは、江戸の料理書から学んだものです。
そうしたわけで、江戸時代の料理書を、現代人が読めるように紹介して下さる食文化史の先生方のお仕事は、とても助けになります。松下幸子先生の『江戸料理読本』(ちくま学芸文庫)は本がボロボロになるまで読ませていただきましたし、またこの度刊行された『江戸 食の歳時記』もそうなると思います。もちろん江戸時代と今とでは、気候や食材の味などにもだいぶ違いがあるとは思いますが、季節感を愉しむという心自体には違いはないでしょう。店に来て下さるお客様のお顔と好みを思い浮かべながらこの本のページをめくり、季節の献立づくりの参考にさせていただきたいと思います。
和食の基本は江戸時代に出来上がったということで、江戸時代の料理は今よりも素朴なものだったと思われる方も多いかもしれません。しかし、実際に江戸の料理書にある料理を作ってみると、驚かされることばかりです。
例えば、『料理早指南』の四篇(一八〇四年)に「黒酢和え」という調理法が出ております。これは昆布を焦がさずパリパリになるまで炒り、細かく砕いてすり鉢で摺り、酢と塩をあわせた「黒酢」で魚介類を和える料理なのですが、「こんな味があったのか」という、目からウロコの味です。平貝で試作した時の衝撃は、今も忘れられません(そして、商売的には手の内を明かすようなことは書かなければよかったと後悔しております)。
醤油が完成する江戸時代後期より前の時代には、刺身や鱠は、黒酢のような調味酢で食べられることが多かったようです。これは、他に調味料がなくてしょうがなく、ということではなく、実際に素材との相性がよかったからだと思います。鰺の刺身を多めの塩を溶かしただけの米酢で召し上がってみてください。とっても美味しいですよ。
また、今や市民権を得て、市販品まで売り出されている梅干しの味の効いた「煎り酒」も、江戸時代には多く用いられていました。醤油はもちろん美味しいのですが、鱚などの白身魚を煎り酒で召し上がっていただくと、多くのお客様が喜んでくださいます。『江戸 食の歳時記』には、この煎り酒の作り方が何通りも紹介されていますので、実際にお作りになって、ご自分の味をお探しになるのも楽しいと思います。
この文章を読んでくださっている頃には涼しくなっているといいのですが、秋の味覚といえば松茸ですね。この松茸でも、江戸の料理書は驚かせてくれます。『素人庖丁』二編(一八〇五年)には焼き松茸の仕方が書かれているのですが、なんと、醤油でつけ焼きにした松茸に、柚子をしぼり、黒胡椒をふるんです。松茸に胡椒なんて、と思うのですが、これが素晴らしい組み合わせ。江戸時代人の豊かな発想と舌に頭が下がります。なお、江戸時代には、素麺やうどんを食べる際に、胡椒が欠かせなかったことも、一言申し添えておきましょう。
「ちくま」2022年10月号より転載