慌ただしい日常に疲れ、ちょっと現実から逃れたい。そんな時、僕が読みたくなるのは時代小説。中でも池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』や『剣客商売』など数々の時代小説は、まさに「大人のユートピア」。自分がいま置かれた状況から、強制的にログアウトし、思うがままに想像世界へ……。池波さんの作品は市井の人々の暮らしが活き活きと描かれ、郷愁を覚えます。とりわけ強い印象を残すのが、酒肴の描写。料理の湯気や匂いが立つような筆致には、池波小説で描かれる事件の本筋の緊張から解き放たれ、つかの間の安らぎを覚えます。登場人物と共に、ひと心地つきながら、その味覚を共有できるのです。
今月ご紹介する『江戸前 通の歳時記』(集英社文庫)は、そんな池波さん自身を唸らせた、折々の旬の料理。そして、味覚と共に立ち上がる思い出を紹介するエッセイ集です。たとえば「一月」なら「橙」、「四月」なら「鯛と浅蜊」、「十二月」なら「柚子と湯豆腐」といったように、月ごとに章立てが組まれています。それぞれのエピソードを通じ、戦中から現代にかけて、池波さんが見て来られた景色、下町の人情が垣間見えてきます。
「七月」の項で紹介されているのは「茄子と白瓜」。自身の出征経験を通じて新鮮な野菜の有難みを覚えた話と絡めつつ、茄子の漬物の味わい、茄子の炙り焼きの香ばしさを鮮明に書き記しています。僕も先日、大阪に行った時に、泉州名産の水茄子が出始めているのを見つけ、さまざまなお店のものを買ってきました。酒の肴として、食べ比べを楽しんでいますが、どれもみずみずしくて美味しい。茄子を自分で漬けるのは難しいですからね。鮮やかな紺色を保つために入れるミョウバン。あの匙加減に一苦労するのです。
年齢を重ねるうちに良さがわかる料理ってありますよね。たとえば「二月」で紹介される「小鍋だて」。紹介されている具材は、浅蜊と白菜、ただそれだけです。池波さんはよせ鍋は好きではない理由をこう説きます。「それぞれの味が一つになってうまいのだろうけれど、一つ一つの味わいが得られない」。確かに僕も歳を重ねるうちに入れる具材の種類が減っていきました。
時折、子どもが寝静まった後、晩酌をしながら奥さんと小鍋をつつくことがあります。そんな時のお薦めは、クレソンと鶏団子。温めるイメージの少ない葉野菜かも知れませんが、ふつふつと香りが立ち、クレソン独特のクセがなくなって、いくらでも食べられるのです。柚子かレモンなど、柑橘類をちょっと絞って。おだしは鰹だし。洋風にコンソメ仕立てにしても美味しいかも知れません。
深川の「どぜう屋」、森下の「桜(馬肉)鍋」など、現在も繁盛している東京・下町の名店がいくつか登場します。僕も大人になってから、時折通っているお店です。城東地区には「向こう三軒両隣」の風情がいまなお残り、おせっかいで、気の良い人たちばかり。料理の技はどれも奇をてらわず、洗練されています。この本の中では、子どもだった池波さんが、大人の世界を垣間見たくて、そうした下町の名店に背伸びして通う場面が何度か出てきますが、僕もその気持ち、ちょっとわかるなあ。昔の時代って、「大人」がもっとかっこよかったように思うんです。いまみたいに、なんでもかんでも「お子さま最優先」ではありませんでした。だからこそ逆に、現代の子どもたちが憧れる大人像というものを、我々がきちんと提示できているのか、ちょっと不安になってしまうのです。
江戸前といえば、「九月」で紹介される「小鰭(こはだ)の新子」は、僕の大好物! ただ、僕のイメージでは秋ではなく、梅雨明けぐらいが旬。ひょっとすると、当時は物流が行き届いていなかったため、地方で獲れる魚が出回っておらず、江戸前の物だけだったのかも知れません。それも考えてみれば贅沢な話ですよね。
「通のたしなみ」の項目では、なみなみとビールを注ぐな、寿司屋で「通」ぶるな、など、池波さんの「食」に対するルールが伝授されていて、面白いです。僕なりの決まりを挙げるなら、蕎麦でも寿司でも「出されたら、すぐ食べる」。料亭のように1品ずつ出てくるお店では、ゆったりと流れる時間を楽しみつつも、温かい椀物は温かいうちに、冷たく出された料理は冷たいうちに頂きます。お刺身ならきっと、お皿も冷やしているはず。料理人のそうした気配りを無にする食べ方はしたくありません。「ガツガツ食え!」と言っているわけではありません。味わいつつ、素早く、手早く。これが僕の鉄則です。
なんだかお腹が空いてきちゃいました。江戸や下町の情緒に触れるなら、町人の息遣いが随所に感じられる『剣客商売』(新潮文庫)を読み返してみませんか。『鬼平犯科帳』(文春文庫)を読んで、古地図を片手に下町探訪に出掛けてみるのも面白いかも。夏休み、江戸情緒を感じて、現実世界からログアウトしてみませんか。(構成・加賀直樹)