自由の復権、ハイエク・ルネッサンス 前篇
記事:春秋社
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私は1966年生まれの56歳である。私の世代では、青年時代までソヴィエトを中心とする東側世界が確固として存在して、東西対立は世界認識の基本的な構図をつくっていた。もちろんそれは、社会主義という経済制度についてのメリットやデメリットについて大いに意識する必要性も意味していた。しかし、1990年頃を境に東側世界は崩壊してしまい、社会主義は歴史上の存在になってしまった。このことが意味するのは、現在45歳代前半までの人たちにとっては、政府がすべてを支配する社会について知り、考える機会がなかったということである。
昨今、環境を重視した脱成長論を唱える『人新世の資本論』、あるいはAIによる自動的な政策の決定を提案する『22世紀の民主主義』などの「新しい思想」が話題になっている。著者たちは、30代なかばの学者である。彼らは、国家が圧倒的な支配を実行する社会での人間生活の悲惨さについて知ることはなかった。むしろその後に生じてきた、資本主義世界の抱える問題点だけを見て育った世代である。だから私の世代から見ると、そういった人気書籍にはどれだけか同感できる部分があるものの、政府の命令が市民生活を決定する危険性について、あまりにナイーブに無視しているのが気になってしまう。それを支持する若い日本人がこれほど多いということは、喉元を過ぎたので熱さを忘れたということなのだろう。
人類の歴史で、市民生活に対して国家がもっとも大きな統制を加えたのは、ナチス時代のドイツであり、スターリン時代のソヴィエトである。その時代の全体主義や社会主義を念頭において、もっとも勇敢かつ雄弁に自由の重要性を説いたのが20世紀の社会哲学者フリードリヒ・ハイエクである。その後、彼が辛辣に批判した全体主義や社会主義は崩壊したが、今また新たな国家主義の正当化が人気を博しつつある。この時代に、私が本書によって思いをめぐらせたのは、今の日本にハイエクが生きていたなら、どう考えたのだろうかということである。この表現は、やや僭越にすぎるかもしれない。あるいは、ハイエク思想を手がかりにして、私自身が日本の現状について考えてみたというところだろうか。
本書の内容は、ハイエクとケインズの対決から始まる。ケインズ政策はそもそも有効ではなく、インフレ政策は望ましくないというのがハイエクの主張であった。しかし、戦後の世界では、ケインズ経済学が完全に支配的になり、常識化してしまった。翻って、日本経済は1990年頃のバブルの崩壊以降、30年の長期停滞状況にある。これを「不景気」とみなして、日本政府はケインズ政策を継続し続けた。しかし、ハイエクの見立てではそもそもケインズ政策は、せいぜい短期的なカンフル剤でしかない。30年をこえる停滞に対処することなど到底不可能だ。ハイエク的な見方をするなら、日本経済が停滞しているのは、あまりに多くの経済規制によって、イノベーションの可能性が窒息してしまっているからなのである。
本書では、ついでハイエクがその晩年に提案した「通貨発行の自由化論」を俎上に載せる。暗号通貨ビットコインを生みだしたハッカーたちは、大きな野望を持っていた。それはハイエクが指摘したように、政府が独占的に発行してきた通貨は、過去に必ずインフレによって減価してきたこと、そしてケインズ政策ではそれは永続するという問題へのアンチ・テーゼだった。ビットコインにはわずか13年の歴史しかないが、イーサリアムその他の多くの機能性のコインとともに、これからの金融において大きな役割を果たすだろう。
さて、経済から話題を変えて、ハイエクは経済学者としてよりも、むしろ自由主義の社会哲学者としてのほうがよく知られている。本書でも、経済学者としてのハイエクに続いて、その自由思想へと視点を移す。
人権としての自由権は、ヨーロッパの近代化につれて、イギリスを典型として次第に確立されてきた。それはマグナカルタからゆっくりと発展してきた「法の支配」の賜物である。それは私有財産の保証であり、人身の自由であり、あるいは職業選択の自由であった。ハイエクは、こうしたイギリスの慣習法的な伝統を称賛しつつ、それがフランス的、あるいはデカルト的な理性主義にもとづく急激な社会改革の理想論よりも優れていると主張する。
純粋な人間の理性にもとづいて社会をゼロから構築し直すという野心は、デカルトの直系というべきルソーの思想によって触発された。それはフランス革命の高邁な理念であったが、同時にキリスト教の否定や恐怖政治などの大混乱を招くことにもつながった。ハイエクはこの事実を踏まえて、自由は人間の価値の中でもっとも重要なものであるが、それは社会の漸進的な変化によって実現される必要があると論じた。こうした主張によって、ハイエクは自由主義者であると同時に、現代の政治的な立場としては保守主義者であるという二面性が与えられることになったのである。
こうした自由主義と保守主義の両立が現実的に何を意味するのかは、解釈や文脈によって異なったものになるだろう。日本が置かれている経済苦境に対処するためには、何らかの大きな変化が必要であることは明らかだが、それは戦後の成功体験を墨守したい素朴な保守主義の観点からは、日本が誇るべき慣習を捨てることを意味する。例えば、官庁や大企業を中心に絶対的に維持されている退職金制度は、労働者が転職することに大きな金銭的なペナルティを課するという問題がある。これは労働市場の流動性を著しく低め、結果的に日本の産業構造の変化を阻害して、全体としての生産性を大きく下げているのだが、果たしてこれを改革する勇気が日本人にあるだろうか。
すべての社会制度には何らかの存在理由があったはずであり、保守主義の立場からすると、それは守る価値があるかもしれない。しかし、日本のように長期間の停滞を続けている社会では、保守主義の画一的な適用はこれまでの停滞の永続化を意味している。ハイエク的な自由の称揚を実践するためには、もっと個人的な活動の自由を許すという枠組みが必要だ。しかし、規制大国の日本ではウーバーを禁止する運送業でも、法人の農地取得を禁止する農業でも、すべてを原則として禁止することで社会の変化を完全に否定している。果たしてこれは、彼の尊重した「社会の慣習や伝統」に沿ったものといえるだろうか。