あなたにとっての 「よい暮らし」とは? 『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
本書は飽くなき欲望に警鐘を鳴らし、個人としても社会としても「もう十分」と言えない心理的傾向に対して強い懸念を表明するために書いた。本書の批判は、金銭的な貪欲、つまりとめどなくお金を欲しがる欲望に向けられている。したがって本書の批判の対象は、世界で富裕な国に住む人々、総体的に見てまずまずよい暮らしができる程度に裕福だと考えられる人々ということになる。国民の大半が極度の貧困の中で暮らしているような貧しい国に住む人々にとっては、貪欲はかなり先の話であろう。とはいえ富裕国か貧困国かを問わず、富裕層が大多数の人をはるかに上回るような富を手にしている場合には、やはり貪欲が見受けられる。
金銭的貪欲を生んだのは資本主義であるから、資本主義を打倒すれば貪欲は消滅するとマルクス主義者は主張する。貪欲を生んだのは人間の原罪だとキリスト教徒は主張する。私たち自身の考えは、こうだ。貪欲は人間の本性に根付いており、自分の財産を他人と比較してうらやましがる傾向を誰もが備えている。だがこの傾向は資本主義によって一段と強められ、そのために貪欲という心理的な傾向が広く文明に根を下ろしてしまった。このため、かつては金持ちに特有の異常な性癖だった貪欲が、いまや日常的に見られる当たり前の傾向になっている。
資本主義は、諸刃の剣である。物質的条件の大幅な改善を可能にする一方で、人間の忌むべき悪癖、たとえば強欲、嫉妬、羨望を助長する。この怪物は再び鎖に繋いだほうがよいと私たちは考えている。そのために、よい暮らしあるいはよき人生について偉大な思想家たちが語った言葉を時代や文明を超えて探り、それを実現するための政策を提言していく。
まず疑念を提起したいのは、現在の経済政策が国内総生産(GDP)の拡大に取り憑かれていることだ。経済成長それ自体に反対するつもりはない。しかし、何のための成長かと問うてもよいだろうし、何の成長かと問うことも理に適っているだろう。誰もが自分の自由に使える時間を増やしたい、公害を減らしたいと考える。どちらも、人間の幸福にとってごく健全な考えだ。ところが、どちらもGDPには含まれない。GDPに含まれるのは、国内で生産されたもののうち市場で取引される分だけである。公害が発生してもその分が差し引かれるわけではないし、余暇が増えてもその分が足されるわけでもない。したがってGDPの拡大がどれほど幸福を増やせるのか、という点には議論の余地がある。きわめて貧しい国にとっては、GDPの拡大はたしかに国民の幸福を増やすだろう。だがゆたかな国の場合、GDPがすでに多すぎる可能性は大いにある。富裕国の場合、GDPは、よい暮らしをめざす政策の副産物程度に扱うべきだというのが私たちの考えである。成長率がプラスになるか、マイナスになるか、横這いなのかは結果としてついてくるものだ。
本書では、よい暮らし、よき人生を成り立たせるのはどのような要素かということを問題にし、正義の問題は論じない。現代の政治理論は、正義とは何か、公正とは何かを問う抽象的な議論から出発し、そこから「正しい」社会のあり方を導き出すことが多いが、私たちのアプローチはちがう。私たちの出発点はあくまでも個人であり、個人のニーズである。それを基点に、公共の利益を考えていく。現代の正義論の中心にあるのは分配の問題であり、たしかにそれはきわめて重要であるが、私たちにとって分配が重要になるのは、よい暮らしに必要な場面に限られる。
ほとんどの人が週15時間しか働かない世界を想像してほしい。そこでは労働の成果が社会全体にいまより均等に分配されるため、人々の所得は現在と同程度、いや現在以上になるとする。となれば、起きている時間のうち自分の自由に使える時間が仕事よりもぐっと多くなるだろう。経済学者のジョン・メイナード・ケインズが1930年に発表した小論文「孫の世代の経済的可能性」(山岡洋一訳『ケインズ説得論集』〈日経ビジネス人文庫、2021年〉に収録)の中で描き出したのは、まさにこれだった。この小論文の主張は単純明快である。技術が進歩するにつれ、単位労働時間当たりの生産量は増えるので、人々がニーズを満たすために働かねばならない時間はしだいに減り、しまいにはほとんど働かなくてよくなるという。そこで「人類の誕生以来初めて、人間は真の永遠の問題に直面することになる。それは、差し迫った金銭的必要性に煩わされない自由をどう使うか、科学と複利が勝ちとってくれた余暇をどのように活用して賢く快適に暮らすか、という問題である」とケインズは書いた。そうした状況が100年以内には、つまり2030年までには実現すると、ケインズは考えていたのである。
執筆当時の状況を考えれば、ケインズのこの近未来的小論が一顧だにされなかったのも驚くにはあたらない。なにしろあの頃は、大恐慌から抜け出すという喫緊の課題を筆頭に、急を要する問題が山積していた。ケインズ自身も、この見解を表立って蒸し返すことはしなかった。だが、「働かなくてよい未来」という夢がつねに思考の背景にあったことはまちがいない。なるほど、ケインズはあの偉大な『雇用、利子および貨幣の一般理論』によって、長期の経済的進歩の理論家としてではなく短期の失業の理論家として世界に知られるようになった。それでも以下に挙げるように、ケインズが一度提起して捨て去った数々の疑問に立ち帰るべき理由は十分にある。
第一に、ケインズは今日ほとんど論じられないことを問題にした。それは、何のための富なのかという疑問、そして、よい暮らし、よき人生を送るために必要なお金はどれくらいかという疑問である。答の出ない疑問のように見えるが、けっして瑣末な疑問ではない。まともな頭の持ち主にとって、金儲けが人生の目的となるはずがない。私の人生の目的はもっともっと金を稼ぐことだと言うのは、食べる目的はもっともっと太るためだと言うようなものである。そして、個人に当てはまることは社会にも当てはまる。金儲けは人類の恒久的な仕事にはなり得ない。理由は簡単だ。お金にできるのは使うことだけだからである。だが永久に使い続けることはできない。いずれ満足するか、うんざりするか、その両方になるときがくるだろう。それとも、満足することはないのだろうか。
第二に、先進国で暮らす人々は、1929~32年の大恐慌以来最悪と言われる大不況のまっただ中にいる。大規模な危機は装置の総点検のような役割を果たし、社会制度の欠陥をあぶり出し、対策を促す。いま点検されているのは資本主義というシステムであり、ケインズの小論文は、資本主義の未来を考える一つの視点を提供したと言えるだろう。今回の危機は二つの欠陥を暴き出した。ふだんであれば、「いかなる犠牲を払ってでも成長すべし」というほぼ全員一致の決意に隠されていた欠陥である。
一つめは、モラル面の欠陥である。銀行危機は、現行システムの拠りどころが強欲や貪欲という動機にあることをまたしても暴露する結果となった。このような動機は倫理的に好ましいとは言いがたいし、社会を貧者と富者に分つ。しかも近年では貧富の差が拡大し、それが「トリクルダウン理論」(富者が富めば自然に下の層にも富が浸透するという理論)なるもので正当化されている。一つの社会に極端な富者と極端な貧者が共存すること、とりわけ万人に富が十分行き渡るはずの社会でそのような現象が起きることは、正義の感覚からも受け入れがたい。そして二つめは、資本主義経済の顕著な欠陥である。現在の金融システムは本質的に不安定であり、2008年のリーマンショックのときのように何かがうまくいかなくなると、その非効率で破滅的な性質を露呈する。債務過多の国では、国民所得の相当程度が失われるまで国債は下がり続けるだろう、と噂されている。巨大な金儲けマシンがこうもたびたび故障するのでは、もっとましなシステムがあるのではないかと考えざるを得ない。
ケインズの疑問に立ち帰るべき第三の理由は、資本主義後の世界がどのようなものか想像してみよ、と問いかけているからである(資本がもはや蓄積されないような経済システムは、名称がどうあれ、資本主義ではない)。ケインズは、「人々の金儲けの本能や金銭欲への絶え間ない刺激」が資本主義を支える動機だと考えていた。そしてゆたかになれば、この動機は社会的に容認されなくなるから、資本主義はその任務を終えて自然消滅するだろうと考えた。だが稀少性を前提とすることに慣れ切ってしまった現代人は、ゆたかな世界ではどのような動機や行動原理が主流となるのか、あるいはなるべきなのか、ほとんど考えようとしない。
それではここで、誰もがよい暮らしを送るのに十分なものを持ち合わせていると想像してみよう。この場合、よい暮らしとは何か。よくない暮らしとは何か。よい暮らしを実現するためには、いまのモラルや経済システムにはどのような修正が必要だろうか。このような疑問が提起されることは、めったにない。というのも、現代の学問分類では、受けとめるべき分野がはっきりしないからである。哲学者は完璧な正義の体系の構築をめざし、目の前の事実の混乱ぶりなど眼中にない。経済学者は主観的な欲望を満たす最善の方法を求め、欲望の中身にはおかまいなしだ。そこで本書では、哲学と経済学の視点の融合を試みる。どちらの学問も互いを必要としている。一方は実務的な影響力のために、他方は倫理的な想像力のために。本書は、かつてモラル・サイエンスと呼ばれていた経済学、号令で動くロボットではなく共同体を営む人間の学問だった経済学を蘇らせることをめざす。(序論より抜粋)