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永井均の哲学は何が面白いのか

記事:春秋社

"spear vs. shield" Stable Diffusion Demoで作製

永井哲学との出会い

 私が永井哲学に出会ったきっかけは友人に『仏教3.0を哲学する』を勧められたことだった。

 永井均という哲学者が考えている今までの哲学史上考えられたことのないような〈私〉の哲学を永井哲学と呼ぶ。

 当時、私は宗教哲学を学んでいて、個人的な自我とそれを超える大きな自我という構図に親しんでいたので、そこで論じられる「私」と〈私〉という区別は見知った構図のようだった。しかし、宗教哲学におけるその区別は神秘的で知りがたいのに対して、「私」と〈私〉の区別は誰もが知っているのに、常識によってなかったことにされてしまう区別だった。

 私なりにその区別を説明してみよう。

 「私」は常識的な自我・自己である。自分も他人も私という言葉を使って話すから、自分と同じように他人にも自我・自己があるのだろうと普通は考える。そういう普通の自我・自己が「私」である。

 しかし、現に見えたり聞こえたり感じたり意識を持っているのはこれを書いている私だけなのだ。いや、他人も感じたり意識を持ったりしていると反論されても、それを私は私であるように意識できない。そうできたとしたらそういう感覚があるのかもしれないが、現に今そうなっていない以上、私しか私ではないのだ。そういった常識外れな、たった一つしかない性質を独在性といい、それを持った私を〈私〉という表現は示している。

 そしてその「私」と〈私〉を仏教に活かそうという試みが仏教3.0だった。ただ、冒頭で見知った構図のようであったと書いたように、構図だけ見ればよくあるものだから、仏教に限らず、宗教哲学には何でも活かせそうであった。実際、私が興味を持っていた思想はサーンキヤ哲学という仏教ではないインドの思想だったが、永井哲学を導入することで、どういうことか完璧に分かったような気になった。そこから永井哲学のファンになったのである。

 そんなわけで、私が永井哲学のファンになったのは純粋な哲学的興味ではなく、宗教哲学を経由したものであった。しかし、永井哲学自体は哲学であって、純粋な知的営みである。何かに活かされるようなものでなく、ただただ私の独在性の問題を究めていく。そんな探究の成果が近刊の『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか――哲学探究3』である。

独在性と超越論の対決

 本書は哲学探究3というタイトルだが、同じ問題をまったく初めから探究し直しているので、ここから読み始めても問題ない。「私だけしか現に私ではない」という驚きが原点にありつつも、それを「それぞれに私がある」という常識的世界観に変えてしまう言語の働きや、しかしそれに対抗し得る「現にそうなっている」という現実性、そして現に私が私であることは私が持っているあらゆる特徴と無関係だという無内包性などの問題へと発展していく。

 永井哲学を読む面白さ、ひいては哲学書を読む面白さは世界が不思議なものだと知ることにあるだろう。哲学に限らず学問というものはそうかもしれないが、哲学は生きているうえで常に避けようのないような根本的な条件が不思議なものであることを暴き出す。

 『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』というタイトルが示している問題を紹介しよう。

 私が現に私であることは私が持っているあらゆる特徴と無関係だが、しかし、ただ一つ現実化されているものは私の持っているあらゆる特徴が制限している範囲と重なっている。しかし、物理的な私に現実化が制限されていると考えることはできない。もしそう考えるなら私に限らず誰もがそうであるはずで、そのなかでこの私の範囲”だけ”が現実化しているという問題が取り逃されてしまうからである。

 では、この現実化が物理的にまったく制限されていないのなら、この私が現実化される範囲でなくてもよいはずであり、次の瞬間に、他の誰かが独在性を持った〈私〉になってもよいはずである。

 このような〈私〉の「常識外れさ」が「独在性の矛」ということである。

 その常識外れさが挑戦するのだから、挑戦されるのは常識のはずである。「超越論的構成」とは私たちの持つ常識的な世界を構成することであり、カントという有名な哲学者の用語である。

 昨日はこれを読んでいるあなたが私だったのだが、今日はこれを書いている私が私になっているといったことは起こらないというのが常識だろう。そもそも、もしそうなっていたとして、私はそれに気づけるだろうか? これがこの問題を考える糸口かもしれない。

 以上のように、常識外れな独在性は、どこまでも常識を打ち破っていけるのか? という問題をこのタイトルは表しているのである。

永井哲学の面白さ

 最後に私が永井哲学を面白いと思う点を挙げて終わりにしよう。

 永井哲学を知ったあとでは、自我に対する他のあらゆる議論が、根本的に間違っているような気がしてしまう。そのような圧倒的な問題を扱っているという点。

 そして、現に私だけしか私ではないのだというとんでもないことを知ったとき、自分は特別な存在であるような不純な自尊心が湧く点。

 以上の点で、私は永井哲学を面白いと思う。

(文・春秋社編集部)

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