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戦後文化における映画の重要性  筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』

記事:筑摩書房

伊福部昭=1994年、東京都世田谷区の自宅、瀬戸伸雄氏提供(朝日新聞社)
伊福部昭=1994年、東京都世田谷区の自宅、瀬戸伸雄氏提供(朝日新聞社)

 復興から高度成長期までの戦後日本文化を特に大衆の意識という視点で見た時、映画の重要性は決定的であった。やや大げさに言えば戦後日本文化は映画とともに発展したとも言える。

 したがって本書では映画をとくに重視したが、この重要な戦後映画を見るにあたり映画会社ごとに見ていくことを基本にした。1950年代から60年代にかけての映画全盛期の時代、主要映画会社は松竹・東宝・新東宝・大映・日活・東映の6社であったが、映画の製作配給システムは映画会社が監督・スタッフ・俳優を雇用し系列配給館で上映するということになっていたからこの6社の存在は決定的に重要だったのである。

 今日世界的に大きな影響力を持っている日本文化・アニメもこの時代にできた映画会社東映系の東映動画をもとにして発展してきたものなのであるから、その点は歴然としているだろう。それにもかかわらず、この映画会社から映画史を見て行くという視点はこれまでの映画史研究では必ずしも十分に行われてはいない。監督を中心に見ていくという視点が強いせいだろう。

 その監督という視点についても黒澤明と小津安二郎ばかりに焦点が当たり、この二人以外の監督がほとんど無視されているような状況も戦後日本映画の正しい理解を妨げているのではないかと思われる。そこで、これまであまり重要視されなかった監督や作品をできるだけ取り上げることにしたのも本書の一つの新しい方針である。

松竹・東宝・新東宝

 

映画監督の木下恵介=1991年(朝日新聞社)
映画監督の木下恵介=1991年(朝日新聞社)

 さて、では6社のなかからまず松竹を見ていくことにしよう。松竹を代表する映画監督は木下惠介であった。代表作は『二十四の瞳』(1954)である。戦後日本を代表する反戦映画といえよう。しかし、空前の真面目作品『喜びも悲しみも幾年月』(1957)を作るとすぐにそれを風刺する喜劇『風前の灯』(1957)を作った木下の作風は幅広い。『今日もまたかくてありなん』(1959)は中でもあまり知られていないが、一筋縄ではいかない木下の戦争観を理解するにあたって重要な作品なのである。そこで本書では第1講でこの『二十四の瞳』『今日もまたかくてありなん』の二作を併せて論じてもらい、今までにない木下映画論の視点を出してもらった(後者を作った木下の意図の理解には第3講も役立つであろう。また、編者の『二十四の瞳』観については『大正史講義【文化篇】』第11講「童謡運動」で触れたことがある)。

 松竹という会社は「寅さんシリーズ」で有名だが、それだけ大衆的であったということである。だが、大衆的という意味での松竹の一時代の頂点を極めたのはメロドラマ『君の名は』(1953)であった。戦前『愛染かつら』(1938)を大ヒットさせた松竹映画の本流に沿うものであったが、『君の名は』はNHKラジオ放送で大ヒットを記録し、それから映画となり主題歌もヒット、戦後におけるこのジャンルのメディアミックスの一つの先駆でもあった。「聖地巡礼」や関連グッズのヒット、真知子巻きという流行モードをも生み出した点で戦後マスメディア史上欠かせない『君の名は』ブームを初めて本格的に検討したのが第2講である。

 次に主に東宝で活躍した成瀬巳喜男監督を第3講が扱う。戦前松竹にいた成瀬が「小津安二郎は二人いらない」と言われP.C.L.(東宝の前身)に移籍したことは有名だが、戦後は林芙美子の一連の小説の映画化などによって日本映画を代表する監督となった。その「偉ぶらない」人柄そのままの庶民の暮らしを丹念に描いた作風を確立したのである。それはどのように作り出されたものなのか、成瀬巳喜男監督作品の意義を最もよく知る著者が丁寧に論じている。「明るい」戦後の社会が来たのに、その中でうまく生きていけなかった人、戦後社会の敗残者たちを成瀬はどこまでも描きとおしたのだった。その頂点に傑作『浮雲』(1955)があった。

 東宝映画においては円谷英二を特撮監督とする特撮映画が大きなウェイトを占めていたが、言うまでもなく戦後その基軸となったのは『ゴジラ』であった。後に多くの特撮映画を生み出し世界的影響力を持つに至る『ゴジラ』の映画史的意味が第4講では論じられる。

 そして東宝は「社長シリーズ」などのサラリーマン映画シリーズと60年代に入ってからの「若大将シリーズ」などのシリーズもので安定した興行的成功を見せ、高度成長を支える映画会社になる。これまで研究対象として扱われることがほとんどなかった、その二つのシリーズを軸に東宝シリーズ映画の意義を第5講で扱う。

 この東宝映画から独立して戦後初期に登場したのが新東宝映画である。新しい映画会社だけに系列上映館の確保に苦労したが、戦争映画など他社に見られない独自性を発揮し、戦後映画界に大きな足跡を残した。新東宝が製作した政治歴史映画の屈指の名作『叛乱』(1954)の意義を第6講が論じる(『日本のいちばん長い日』〔1967〕も論じたかったが他日を期したい)。

 そして、経営が傾いた時には、当時、日本映画史上最高の観客動員数を遂げた戦争映画『明治天皇と日露大戦争』(1957)を公開し世人を驚かせた。また中川信夫監督による『東海道四谷怪談』(1959)などの怪談映画も逸することができない。日本の大衆の最もネイティブな感情を取り出してきたユニークな映画会社として忘れられない新東宝映画について第7講が語る。

大映・日活・東映

 戦争中に合併会社として成立した大映映画は永田雅一社長のもとに戦後様々な独自の展開を見せたが、何といってもその特色は優れた美術監督・撮影監督による時代劇映画であった。中でも『斬る』(1962)などの三隅研次監督作品はその独自の美学で今日ますます評価が高くなる一方である。大映美術を駆使した三隅映画の特色を第8講が明らかにしている。

 戦前以来の、最も古い時期からの映画会社日活は、戦後は製作をしていなかったが、1954(昭和29)年、調布に東洋一と言われる撮影所を作り意欲的な製作に乗り出した。最初は文芸映画が多く、今日でも残る優れた作品も多いが、興行的にはあまり成功せず、赤字の続く会社であった。しかし、石原裕次郎主演の太陽族映画・アクション映画で大きく飛躍する。そして1960年代には吉永小百合と「御三家」の歌謡映画で成功した。その日活青春映画の意義を研究の第一人者が第9講で論じている。

 東映も戦後創立の会社であるが、最初は経営が難航、『ひめゆりの塔』(1953)と『新諸国物語 笛吹童子』(1954)のような子供向け時代劇で成功し、結局「時代劇は東映」のキャッチフレーズのもとに時代劇の一大王国を築いた。第10講はその東映時代劇映画を論じる。

 しかし、東映時代劇も1960年代、黒澤時代劇の登場とテレビの発達とともに陰りが出てくる。その時東映が起死回生を期して生み出したのが任侠映画であった。高倉健・鶴田浩二を中心としたシリーズはいずれも大ヒット、1960年代後半は東映の映画館のみに観客が集中する傾向が見られた。しかし、それほどの大ヒット・観客動員を続けながら大新聞の映画欄にはまったく取り上げられないという奇観を呈したものでもあった。

 結局、他の映画会社も任侠映画を作ることになり、一時期日本映画界は多数の任侠映画を公開することになっていったが、その任侠映画とは何だったのか、第11講が論じる。

 時代劇映画は他国に例を見ない日本映画に固有の作品グループであるため、それをどう見るかは日本における映画論の極めて重要な課題となるが、論著は必ずしも多くはない。第12講は、非常に多くの作品が作られた「幕末維新」映画の系譜を検討しつつ時代劇映画とは何かという問いに答えたものである。

映画「君の名は」の公開以降、長いストールを頭と首に巻く「真知子巻き」が若い女性に流行した=1953年12月、東京・銀座(朝日新聞社)
映画「君の名は」の公開以降、長いストールを頭と首に巻く「真知子巻き」が若い女性に流行した=1953年12月、東京・銀座(朝日新聞社)

多様な大衆文化の展開

 戦後の日本大衆文化においては映画のみならず先述の『君の名は』のようにラジオの影響も極めて大きいものがあった。この『君の名は』はじめラジオドラマの脚本を多く書き、また映画でも演劇でも活躍し多くのヒット作品の脚本を書いた菊田一夫は戦後日本の大衆文化に圧倒的な影響を及ぼした存在であった。その菊田について第13講が論じる。この時期の大衆文化に広く精通した著者の講は菊田の存在が大きかっただけに、菊田論を超えて戦後日本の大衆文化・国民文化全体を論じた内容となっている。

『新諸国物語 笛吹童子』が東映映画を成功させたように、少年少女ヒーロー・ヒロインものは戦後日本の大衆文化の重要な基軸をなしていた。それら『赤胴鈴之助』『月光仮面』などを戦前以来の日本の大衆文化の流れの中に位置づけたのが第14講である。それらが戦前日本の大衆文化と深いつながりを持っていることを明らかにした著者の発見の意義は大きい。

 東映動画から出発した宮崎駿がスタジオジブリを中心に活躍し今日の日本を代表するアニメ文化を作るに至るまでのプロセスを軸に日本アニメの発展を論じたのが第15講である。

 そして、そのアニメと深い関わりを持った漫画においては、手塚治虫と長谷川町子が戦後日本において最もよく知られた国民的存在であった。長谷川の『サザエさん』(1946~74)は江利チエミ主演の映画シリーズが作られたことも大きかった。しかし、日本の漫画史全体から見た時、この二人はどのように位置づけられる存在なのか。「現状の戦後漫画史には、戦前戦中との連続性抜け落ちている」という点をはじめとして、第16講はこれまでの日本マンガ史への重大な反措定を含むものである。文化史的問題提起の意義が極めて大きいののとしてこの講を味読されたい。

 映画と流行歌を二つの軸に発展した雑誌『平凡』(1945~87)は戦後庶民の若者文化の中核をなすものであった。そして、それを軸に展開された同誌を介した若者の活動は、1950年代において左右対立から離れた独自の文化を形成した。その展開には、戦時中のプロパガンダ的要素と戦後民主主義的要素とが重なる二重性が見られることを第17講が明らかにする。

 映画に代わり、1950年代後半からは大衆文化において大きな影響力を持つことになるテレビに関しては、早い時期に始まり今に至るまで続くNHKの朝のテレビドラマについて、それは何なのかを第18講が論じる。NHKの朝ドラは影響力の大きさの割に本格的に論じたものは少なく、得難いものとなっている。

 映画を軸にした本書においては、音楽を扱う場合、日本の戦後音楽の様々な要素のうち、どうしても『ゴジラ』の音楽で著名な伊福部昭の音楽世界を採り上げざるを得ない。ユニークな日本音楽論で知られる著者だけに第19講は本書にふさわしい掘り下げの深いものになったといえよう。

 戦後日本文化を大衆からの視点を基軸にしてまとめることが本書の主眼であったが、映画などを主題にした下巻はとくにその視点が新鮮に出されることになった。戦前からの連続性や、戦後の復興・成長の文化的背景、それから取り残された人々の問題の指摘など、これまでにないユニークな新しい戦後文化史を書くことができたと信じている。しかし、読者の視点を新しく開くものになっているかどうかは読者の判断を待つしかないであろう。

筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』(ちくま新書)書影
筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』(ちくま新書)書影

(筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』「はじめに」より抜粋)

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