ピェールへの旅――メルヴィル『ピェール』新訳とゆかりの地探訪
記事:幻戯書房
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レオス・カラックス監督による『ピェール』の映画化『ポーラX』(1999)の先駆性は、映像冒頭に第二次世界大戦時の、十字架を機体に刻印した爆撃機による教会墓地への無差別空爆という終末的情景を強引に挿入したことだが、これは『ピェール』の背後に潜む「黙示録のピクチュアレスク」を前景化させたものといえる。
そのような情景を知悉しながら、それでも我々は第二次世界大戦を「終結させた核兵器」、すなわち「原爆」以後の「黙示録」の現代を、平然と生きている。
いままでも繰り返し「黙示録」が語られ、9・11の同時多発テロがあり、3・11の福島原発事故があった。にもかかわらず、我々の「日常」は少しも変わることなく進行している「ように」見える。
コロナ禍はおさまりを見せず、ロシアのウクライナ侵略も先が見えず、北朝鮮は核搭載可能なミサイルを打ち上げては、日本列島上空を横断させている。それでも日本では「日常」が少しも変わることなく進行している「ように」みえる。
このような状況下で、坂下昇氏の初訳以降二番目の『ピェール』訳を進めてきた。『ピェール』の本来の副題は「曖昧の数々」である。しかし「日常」が「終末」と併存している中でこの作品を翻訳する時、作中のピェールの言に基づいて、副題を「黙示録よりも深く」とするアイディアは必然のように思われた。謎の女イザベルに「地獄の夢魔」へと誘導される未経験の青年ピェールを現代に再生する意味がそこにはあるように思われたからだ。
とはいえ、先の見えない濃霧のような『ピェール』という作品の翻訳に四苦八苦しつつも、「ピェールへの旅」は続けていた。これは比喩的に言っているわけではない。数年にわたる翻訳作業、とりわけイザベルという謎の女に、主人公の青年ピェールと同様に振り回される傍らで、アメリカに出かけては、アメリカ東部をめぐり、ピェールの詩「熱帯の夏」のモデルとなる『タイピー』や『オムー』の背景を求めてのポリネシア紀行、さらにはヴェルサイユ庭園の「エンケラドス」像などを求めて、「旅」を並行して行った、ということである。
冒頭の献辞として、『ピェール』は「グレイロック山」に捧げられている。マサチューセッツ州西部の都市ピッツフィールドの郊外にある農場「アローヘッド」で、書斎の窓から毎日その山容を眺めながら、メルヴィルは『ピェール』を書き続けた。
前作『白鯨』は先輩作家ホーソーンに捧げられている。しかし次作『ピェール』は「山」に捧げられた。ピッツフィールドの中心にあるホテルの上階から眺めた、マサチューセッツ州の最高峰「グレイロック山」が次の写真である。
二つの頂を持つ山容は遠くから見ると馬の鞍を思わせる。一名「サドル・バック山」とも呼ばれ、作品中ではピェールの屋敷一帯が「サドル・メドウズ」と呼ばれることになる名称の「元来の」由来とされている。まさしくこの優美な山が、作品終盤では反逆的巨人「エンケラドス」との闘いの山へと変貌するのである。
ピェールはこの地を背景に彼の「異母姉」であると主張するイザベルと出会い、彼女を貧窮から救助することを即断する。しかし彼女の語る話で信用できるものはほとんどない。フランスの片田舎の山中の古城のようなところで幼児期を過ごし、記憶の中の自分の言葉では「海に浮かんで揺れる船」のようなところを経由し、精神病院のような施設で少女期を過ごした、という。その後の「サドル・メドウズ」近隣で過ごした時の記憶、とりわけ母の持ち物と思われる「ギター」、父の置き忘れたという「ハンカチーフ」も彼女の出自を証明するものとはなりえない。しかも作者メルヴィル自身とおぼしき「語り手」が、彼女の出自がピェールの姉であることを、限りなく疑問視して表現しているのである。しかしピェールは決断の一歩を踏み出し、引き下がることは拒否し、彼女とともに生活の場をニューヨークの下町の場末とおぼしい旧教会の「使徒館」と呼ばれる建物に移す。
ここはメルヴィル自身の出生地パール街にも近く、また1857年出版の『信用詐欺師』以降小説創作を中断し、その後1866年から85年まで務めたニューヨーク港税関(下の写真)とも近い場所と推定される。
またこの地は9・11の同時多発テロで攻撃された「ツインタワー」に隣り合わせるウォール街の証券取引所にも近い場所とも推定される。ウォール街のシンボルは「聖トリニティ教会」であるが、次の写真は同時多発テロ以前の、同教会の尖塔を黒々と際立たせた金融街のビルの様子である。
この地からさほど遠くないところに、メルヴィル研究のメッカともいえるニューヨーク公立図書館があるが、その一室で開かれたアメリカ・メルヴィル協会の国際大会で筆者はスピーチをする機会があった。そのスピーチの中で、メルヴィルが『ピェール』執筆時に、『リテラリー・ワールド』という文芸誌に寄稿した評論「ホーソーンとその苔」にいくらか言及した。(『ピェール』訳書巻末「訳者解題」参照)。『リテラリー・ワールド』はダイキンク兄弟が編集していた雑誌であり、そこに投稿された原稿など貴重な資料がこの図書館の一室で「ダイキンク・コレクション」として保存されている。もちろん「ホーソーンと苔」の原稿も保存されているが、メルヴィル自身の筆跡の乱れのためか、”sane madness”(醒めた狂気)という語が”same madness”(同じ狂気)という語に誤解され、雑誌に出版されたため、のちにそのまま全集にまとめられて、研究者F・O マシーセンや、詩人チャールズ・オルソンなども誤解したまま引用した、という経緯があったのである。ここは筆者のメルヴィル研究の原点であり、「ダイキンク・コレクション」のこの原稿との出会いは、貴重な経験であった。下記の原稿のコピーの内、下線を施したのがその部分である。
なお次の写真は、スピーチの後撮影した同図書館前での筆者である。
アメリカから帰国後、今度は若きメルヴィリアン大川淳氏とともに、ポリネシアへと飛んだ。作中のピェールの代表作「熱帯の夏」の背景を辿る旅である。タヒチのパペーテをベースに、「熱帯」すなわちマーケサス群島の主島ヌクヒヴァ島の港町タイオハエに滞在した。メルヴィルが『タイピー』で表現したごとく、このタイオハエ湾はきわめて美しい港であった。
このタイオハエ湾にはカソリックと(ティキ像を主神とする)土着の宗教との習合が観察された。それは教会の中にマリア像とティキ像が並んで祭られていることでも理解された。
また海岸には、メルヴィルが1842年乗り組んでいた捕鯨船アクシュネット号から脱走して、食人種「タイピー族」の部落に迷い込んだ経路を描いた記念碑も立てられていた。
その後、タヒチのパペーテに戻ったのち、隣島のモーレア島にフェリーで渡った。車で西岸の港町パペトアイへ向かったが、そこに至る途中で湾を越えて「バリファイ山」として知られる美しい山(下の写真)を眺めることができたのだが、この山は、1842年11月にメルヴィルが、二週間後の12月に中浜万次郎が眺めた山であった。
さらに旅は続いた。再度ニューヨークからロンドンを経由してパリへ飛んだ。ロンドンのテート美術館などではターナーの「蒼ざめた馬に乗る死」や「日の中に立つ天使」といった「黙示録」に関わる絵画を鑑賞したが、パリ近郊のヴェルサイユ宮殿の庭園にある数多くの噴水像の中で、『ピェール』でも言及された、「ペリオン山」と「オッサ山」に埋もれた「エンケラドス」像(下の写真)にたどり着き、その前にしばし佇んだ。
旅の最後で、たしかに「エンケラドス」の像を確認した。それでも『ピェール』の結末部でなぜエンケラドスのような反逆的巨人が登場するのか、なぜ『白鯨』のエイハブを想起させるそのような巨人が「黙示録よりも深い神秘」を書き切ろうとしているピェールと合体するというのか。それらはすべて読者の洞察力に委ねられている。そのいくつかの手掛かりは「訳者解題」で書き残したつもりであるが、それでも「曖昧の濃霧」は晴れることはないかもしれない。もちろんこの「ピェールへの旅」も解読へのささやかな指標でしかない。
ピェールは「黙示録よりも深い謎」を追求しながら中途で倒れる。現代の読者は、作中の「語り手」の示唆を受けながら、その追求を継続せねばならない。それは再び濃霧の中を手探りするような作業となるかもしれない。またその先には次作「バートルビー」の主人公、あの全世界から孤立する虚無的な青年が姿を現すかもしれない。つまるところ、この探求を継続する読者は、すでにメルヴィルのイシュメイル・ヒーローの系譜を辿りつつ生きることになるのである。
『ピェール 黙示録よりも深く〈上・下〉』に収載しています、翻訳者・牧野有通さんによる「訳者解題」の一部は、幻戯書房編集部のnoteで公開しています。併せてお読みください。
〈ルリユール叢書〉のInstagram公式アカウントでは、本書および他巻の紹介をしています。ぜひご覧ください。