渡辺京二さんの『逝きし世の面影』に対する思い
記事:平凡社
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私はずっと売れぬ本の著者であった。それでよいと思っていた。ときには選書になったり文庫化されたりして、部数が万の台に乗ることもなかったわけではないが、私が本筋と思っている著書はだいたい初刷三千、重版なしというのが常態だった。ところがこの本は売れた。ひとつにはそれは、一文の得にもならぬのにことあるごとにこの本を推賞して下さった方が何人もあったからだと思うが、とにかく、葦書房の社長で私の売れぬ本を数々出してくれた故久本三多さんに、彼の生きているときには間に合わなかったとはいえ、少しは申し訳の立った気がした。また刊行当時の社長三原浩良氏にも、三十数年間迷惑ばかりかけて来た相手ゆえ、いくらか負債を返せた思いだった。
しかし、自分の本を買って下さる人がこんなにたくさんいるというのはありがたいのはもちろんだけれど、罰当りな言い草とは思うものの何だか落着かぬ気分でもあった。紹介や批評もたくさん出た。これも落着かぬ気分だった。というのは、私の隠れ願望のことは言わぬにしても、世間には、私が日本はこんなにいい国だったのだぞと威張ったのだと思う人、いや思いたい人が案の定いたからである。
私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認されるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。この本はそれまで私が重ねて来た仕事からすれば、突然の方向転換のような感じを持った人びともいたらしいが、私の一貫した主題が現代という人類社会の特殊なありように落着かぬ自分の心であった以上、そういったものでもあるまいと自分では思っている。だが、そういうくだくだしたことはこれ以上書くまい。この本が呼び起した反応とそれに対する答は、すでに「逝きし世と現代」(『渡辺京二評論集成Ⅲ・荒野に立つ虹』所収。葦書房、一九九九年刊)と題する小論で述べておいた。
「日本」ということについていえば、私はことごとに「日本」を問題にしなければならぬ状況にうんざりしている。私は「日本」などともう言いたくない。ただ狭くとも自分が所有している世界があるだけで、もちろん国民国家の区分のもとに政治・経済・文化の諸事象が生成している「現実」には責任ある対応が必要と承知はするものの、それはことの一面にすぎないと思っている。私が生きている現実は歴史的な積分としての日本に違いないが、それは私が良くも悪しくも、人類の所有する世界にそういう分出型を通じて参与せざるを得ぬということにすぎない。
近頃は伝統といえば、それはごく近代になって創られたフィクションだというのがはやりである。むろん、そういうことはあろう。では自分は過去とは無縁のまっさらな存在かといえば、そんなことは事実としてありえないので、伝統と呼ぶかどうかは別として、自分とは過去の積分上に成り立ち、そこから自己の決断の軌跡を描こうとする二重の存在でしかない。その意味で私は自分が日本人であることを改めて認める。だが、それは国民国家日本の一員として自分を限定することとは異なる。自分が日本という風土と歴史のなかで形成されたものとして、人類の経験に参与する因縁を自覚するというだけのことである。
因縁はなつかしくもうとましい。私は北京・大連という異国で育った人間である。そういう私にとって、日本は桜咲く清らかな国であった。大連にも桜は咲く。しかし桜より杏の方が多くて、その青みがかった白い花は桜に先がけて開き、桜に似てはいるもののもっとはかなげで、私の好みはこの方にあった。春の盛りにはライラックが咲き、アカシヤの花が匂う。夏はそれこそ群青というほかはない濃い青空。秋が立つのは港から吹く風でわかった。冬はぶ厚い雪雲が垂れこめて、世界は沈鬱なブラームスのように底光りする。中学の八級先輩の清岡卓行さんだけでなく、大連は私にとっても故郷だった。
しかし、それはあくまで異郷であって因縁ではなかった。私はやがて桜咲く「祖国」へ帰った。それは良くも悪しくも因縁であるけれども、私はずっと半ば異邦人としてこの国で過した気がする。といっても、私は日本に対して今ばやりの反逆をしたわけではない。日本に反逆すると称して意気がっている連中は、おのれの無知をさらけ出しているにすぎない。私はただなじめなかったのである。まず第一に、この国の知識人社会の雰囲気になじめなかった。このことはこれ以上今は言わぬとして、自然にも異質さを覚えた。
私は十八歳のとき結核療養所に入って、四年半そこにいた。熊本市から北東へ十キロばかり行ったところにあって、まわりは御代志野という高原状の林野だったが、私はそこで初めてこの国の自然の美しさを感じた。しかし、それは宮沢賢治のイーハトーブふうの美しさで、この国の自然一般とはかなり異なった情趣であったかもしれない。それでも、空のコバルト色の淡さはもの足りなかった。早春はそれでよくても、真夏の淡い青空は気が抜けて感じられた。
それ以来、この国の自然のいろんな情趣に接して、この本の中で外国人が嘆賞しているような自然の美しさの諸相に、私自身気づかなかったわけではないが、それでもこの国の山河をほんとうに心の故郷と思うには、なにか隙間がありすぎた。
私は湿っぽい自然がだめであった。有名な神社仏閣を訪ねて、みんなが苔のみごとさに感心しているとき、私はその苔の湿っぽさがいやなのだから話にならない。渓谷を歩いていても、上を見ている分には樹木が美しいが、踏んでいる地面の落葉の積み重なった湿っぽさがたまらない。野に霞がかかり谷に霧がわく、そんな山水画ふうの幽邃さに深く惹きこまれることはあっても、日本の山河はあまりにも寂しくて、こんなところで死んだらと思うと背中が薄ら寒く感じられる。
だから私はこの本を書いたとき、この中で紹介した数々の外国人に連れられて日本という異国を訪問したのかもしれない。彼らから視られるというより、彼らの眼になって視る感覚に支配されていたのだろうか。私はひとつの異文化としての古き日本に、彼ら同様魅了されたのである。
その古き日本とは十八世紀中葉に完成した江戸期の文明である。その独特の雰囲気については私はその後一冊、本を書いた(『江戸という幻景』弦書房、二〇〇四年刊)。渡辺が描き出すのびやかな江戸時代が一面にすぎず、その反面に暗黒があったのは誰それの著書を見てもわかるという批評を案の定見かけたけれど、それがどうしたというのだ。ダークサイドのない社会などないとは、本書中でも強調したことだ。いかなるダークサイドを抱えていようと、江戸期文明ののびやかさは今日的な意味で刮目に値する。問題はこういうしゃらくさい「批評」をせずにはおれぬ心理がどこから生ずるかということで、それこそ日本知識人論の一テーマであるだろう。
完成した形の江戸期社会の構造と特質については、一度きちんと論じてみたい誘惑を感じないでもない。しかし、残り少い時と精力がそれを許すかどうか。ただ次のことだけは言っておこう。少年の頃、私は江戸時代に生れなくてよかったと本気で思っていた。だが今では、江戸時代に生れて長唄の師匠の二階に転がりこんだり、あるいは村里の寺子屋の先生をしたりして一生を過した方が、自分は人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。
この本を出した功徳のひとつは、私の本を読んで下さる人びとの層がいくらか拡がったことだ。以前はごく狭い読者しか意識していなかった。本気で私の本を読んで下さる方は多くて数百人で、それで十分と思っていた。しかし今ではもう少し広い読者の方々が眼に浮かんでいて、そんなふうになれたことが自分では嬉しい。
(平凡社ライブラリー『逝きし世の面影』から「平凡社ライブラリー版あとがき」の一部を抜粋)
第1章 ある文明の幻影
第2章 陽気な人びと
第3章 簡素とゆたかさ
第4章 親和と礼節
第5章 尾雑多と充溢
第6章 労働と身体
第7章 自由と身分
第8章 裸体と性
第9章 女の位相
第10章 子どもの楽園
第11章 風景とコスモス
第12章 生類とコスモス
第13章 信仰と祭
第14章 心の垣根