四谷の丘をめぐるデザインと文学 『邂逅の孤独』より
記事:幻戯書房
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新宿区四谷――。国電の四ツ谷駅は確かに〈谷〉の底にあるが、渋谷駅界隈とは違い四ツ谷駅の四谷口を出て外堀通りに登り出ると、その周辺は平坦な丘状である。いくつもの谷は丘の周縁に散在する。
市谷本村町にある転職先の出版社は「市谷」とアタマにあるものの、市ヶ谷駅よりも四ツ谷駅からの方が近い。国立競技場をスタート兼ゴールとする東京マラソンの、コース復路屈指の難所として知られる、外堀通り「高力(こうりき)坂」に面する。旗本・高力氏の屋敷があったことに由来する名称である。
四ツ谷駅界隈の由緒を感じさせる施設にマーケット「四谷見附小売市場」がすぐ右手方向にあった。新宿通りにかかる四谷見附橋とともに、四ツ谷駅舎を挟んで市谷側にもう一つ、新四谷見附橋が四谷地区と、外濠を跨いで千代田区の番町・麴町地区を繫いでいる。その橋の手前にそのレトロな建物が異彩を放っていた。
驚いたのは駅至近の一等地に大蔵省の官舎があったこと。さすが中枢の官庁だけのことはあると思った。三島由紀夫は戦後間もない一時期、近接する四谷第三小学校を仮庁舎としていた大蔵省に入省し、作家活動との二足のワラジを履いていた。
〈わたし〉にとって三島の最高傑作『金閣寺』は大学初年の夏休みに読んだ小説。主人公の屈折した疎外感と孤独に心奪われた。その後、三島文学には『仮面の告白』や『近代能楽集』、『美しい星』、『サド侯爵夫人』、『豊饒の海』などにそれなりに親しんできたが、〈わたし〉にとっては最後まで「『金閣寺』の三島由紀夫」であり続けた。
小説家が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自死したのは、〈わたし〉が出版社の気風にようやく慣れたころの11月25日。「市ヶ谷」とあっても自衛隊は四ツ谷駅から遠くない。直線距離で600メートルほど。当日の真っ昼間、ヘリコプター数機が唸りを上げて上空を旋回し、ただならぬ事態の発生を告げていた。
若き文才の四谷での官吏生活は数ヶ月で終わる。きっかけとなったのは河出書房の辣腕編集者、坂本一亀が大蔵省に三島を訪ね、書き下ろしの長篇小説を依頼したことにある。数日後、三島は辞表を提出。出世作となる『仮面の告白』を完成させて、戦後派文学の申し子となった。〈わたし〉の勤めていた出版社からは『聖セバスチァンの殉教』(ガブリエレ・ダンヌンツィオ作の霊験劇の翻訳)を出している。美麗な造本が光る。
三島が生を受けた家もまた四谷! 旧・四谷永住町一番地で幼少期を過ごした。なお、当地は現在の四谷四丁目。新宿通りを北に越した街区であり、それと交差する外苑西通りによって東西に分断されている。当時の地図と現在のそれと照応すると「みょうが坂児童遊園」に近い界隈だろう。遊園名の由来は西北側にある小さな通りが「茗荷坂」だから。靖国通りの「富久町西」交差点から外苑西通りに入ってすぐの角を左に下る坂であり、坂下の低地は日当たりが悪くて、かつてはそれでも育つ茗荷畑があったと古文献に記されている。
永住町は四谷の丘の西北端に当たる。四ツ谷駅と新宿駅のほぼ中間点だろう。往時は、悪くいえば〝町外れ〟感の否めない街区であったようだ。北の靖国通り方面への下り勾配になっている地であることも、たしかにそうしたマイナス感を増幅する。
三島が自裁したのは前記したように自衛隊の市ヶ谷駐屯地の総督室。生家とは1キロちょっとしか離れていない。四谷、それと地続きの市谷地区との深い因縁を感じずにはいられない。
同じ四谷生まれの作家のひとりに、三栄町に生家のあった中島敦がいる。中島の小説では、中国の古典に基づいた『山月記』や『李陵』などにも増して、〈わたし〉は特に『文字禍』を好んだ。時代は古代アッシリア。文字がそなえる〈霊性〉が人々に禍をもたらすとする短篇。計り知れない文字の力を映し出していることに惹かれた。
外堀通りを東へ、勤務先に向かう途中の左手に旅館「祥平館」があった。中規模の宿であり、プロ野球の広島東洋カープが東京で試合があるときの常宿としていた。ある日の昼中、あの連続試合出場記録を打ち立てる衣笠祥雄選手とすれ違った。ひとりで宿に戻る途中だった。当日の試合はナイターだったのだろう。風貌こそいかついが、スラッガーは孤独を愛する繊細な感性の持ち主だと見受けた。
当時の広島東洋カープは下位を低迷していた弱小球団。1972〜74年は三年連続のセリーグ最下位だった。宿も相部屋だったはず。ところが大どんでん返しが起きる。翌75年、悲願のリーグ初優勝を果たしたのだった。
祥平館はひょんなことから注目される。脇道側の側面にきちんとした階段があった。ところが肝心の出入り口がないのだ。絵に描いた餅のような存在。だが、そうだからこその特別の愛おしさを美術家・赤瀬川原平らは見出した。そして同類の存在を次々と〈発見〉していき、「超芸術トマソン」と名付けた。トマソンとはプロ野球の巨人軍に二年在籍した選手。元大リーガーの四番打者として注目されながら、二年目は三振ばかり。看板倒れだったことに由来する。
付記すると、隣の三栄町には自動車ジャーナリズムの先駆的存在である「三栄書房」があった。〈わたし〉は迂闊にも同社を訪ねていない。まだ信州にいた十代のころ、看板雑誌『モーターファン』を廉価で購入できる町の古書店に自転車で出かけ、バックナンバーを買っていた。クルマのデザインに興味を持ち始めたためだった。同誌はまた、洋画家・佐藤泰治による表紙がひときわ魅力的だった。
写真撮影技術がまだ未熟な時代。クルマの広報の多くは手描きのイラストレーションに頼っていた。佐藤が描くクルマはどれもダイナミックで、生き生きとしていた。画伯は川端画学校に学び、宮本三郎に師事した。宮本は昭和を代表する洋画家のひとり。挿絵にも優れた素描力を発揮して人気を博した。佐藤も師と同じように挿画家としても活躍したものの、1960年に45歳で急逝した。惜しまれる。
さらに加えよう。祥平館の西方には英会話教育に定評ある「日米会話学院」の校舎があった。三栄通りのランドマークのひとつだった。
学校といえばもうひとつ忘れられないそれがある。「セツ・モードセミナー」である。いわゆるスタイル画であるファッション・イラストレーションのパイオニア、長沢節が開設した学び舎。夢を贈ることである芸術の本義を、カリスマティックともいえる熱い語りで伝授し、ここから幾多の異才が巣立った。ニューヨークのメトロポリタン美術館で特別展が開かれたことが示すように、モードの最先端を拓き、世界に衝撃を与え続けてきたファッションデザイナーが、若き日に在籍したことでも知られる。
立地は新宿通りを越した台地の縁にある舟町。東西に走る靖国通りに近く、先に触れた三島由紀夫が生を受けた四谷四丁目から東へ500メートルほど。西の暗闇坂と東の新坂の中間地帯に当たり、こうした坂の横並びの真ん中の息の切れるほどの胸突き坂に喰い込むようなかたちで瀟洒な白い校舎はある。四谷の丘の際に特徴的な、車を通さない階段が脇を固めており、あたかもその階段とがっちり、タグを組んでいるかのよう。入り口上の幌にモダン・ローマン体でしたためられた校名「SETSU MODE SEMINAR」がまたエレガントそのもの。
地勢は、かなりの無理があることは承知の上だが、芸術の都パリ・モンマルトルの丘のなだらかな斜面にあった、駆け出し時代のパブロ・ピカソらの創作の場となった「アトリエ洗濯船」周辺に通底すると言えなくもない。もっとも〈わたし〉がパリの現地で見た建物は、残念ながら跡地に再建された別物。とはいえ、その正面ウィンドー上に書かれた、跡地であることを示すアトリエ名「LE BATEAU LAVOIR」もまたモダン・ローマン体だった。
――外堀通りをさらに進むと本塩町である。生命保険会社ビルの裏手脇道を入ると、小ぶりで禁欲的な構えの建物が目に入る。粛々とした気を醸し出す三階建て。思いの外広い前庭がまた得がたい。緑樹群がアクセントを添えている。もっとも知られる代表作が、JR上野駅の上野公園口を出てすぐの正面に鎮座する「東京文化会館」である建築家、前川國男の事務所ビル(通称「ミドビル」)だ。前川は東京帝国大学を出て、ル・コルビュジエに師事した。低層の建物を優しく囲む、捲(まく)り上げたようなコンクリートの庇(ひさし)が印象的な東京文化会館は、奇(く)しくも師設計の世界文化遺産「国立西洋美術館」と通りを挟んで南北に対峙している。新宿の〝顔〟というべき紀伊國屋書店もまた前川の設計である。
そして、本格的なモダニズム建築をわが国に着地させた建築家のこの事務所ビル地階に、インダストリアル・プロダクトデザイナーの柳宗理と写真家・渡辺義雄の事務所が入っている。
柳宗理の事務所「柳工業デザイン研究会」には何度か通った。広いとは言えないスペース。粘土などの資材や試作品、関連する図面が所狭しに並んでいるものの、雑然としてはいない。〝混沌と調和〟ともいうべき気配を放つこの空間から、成型合板による名作「バタフライスツール」や、心ある生活者から、時代を超えて今も厚い支持を受ける一連のカトラリーが誕生した。
個人的なデザイン性表出よりも、「用の美」に即して生活に奉仕することに徹した柳。生活を支える無名の工人による日用品の中に巧まざる美を見出して「民藝」運動を進めた厳父・宗悦の理念を、宗理らしい解釈でしかと引き継いでいることは明らかだろう。
モダニズムに反旗を翻したポストモダニズムの旗手として、世界を魅了する、透明感の映える鮮麗な作品を残した倉俣史朗が柳デザインに心酔していたことを特記したい。デザインの本然はイズム如何を超越しているということだろう。例を挙げると、東京・新橋にあった、御影石と杉材を駆使した寿司店「きよ友」。倉俣の美質が見事に立ち上がっている造作であり、2021年にオープンした香港の美術館「M+」にそっくり移設されたことは、その国際的な評価の傑出ぶりを示している。また、美術館の大英断には脱帽するほかない。
ついでながら倉俣はじつに人懐っこかった。気取りや偉ぶりとは無縁。いつ会っても少年のようないたずらっぽい笑みを浮かべて挨拶をしてくれたものだった。
柳の事務所前にある夕刻、旭日印の社旗をさげたハイヤーが停まっていた。朝日新聞記者の来訪だった。記者は最先端テクノロジーと美術が交錯する新しい表現世界を、強靭な知力をもってすくいあげる評論で知られたほか、後年、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー学長などの要職を歴任した。
〈わたし〉のような地方育ちの身には、柳デザインとの最初の出会いとなったのは三輪トラックだった。三井精機工業の「オリエントAB型」。一九五〇年代後半にまだ舗装もされていない田舎道を走っていた。無駄のない、柔らかな曲線美が見た目にもやさしかった。
ちなみに柳の愛車は空冷エンジン搭載のフォルクスワーゲン・タイプ1、通称「ビートル」あるいは「カブト虫」だった。
当時の街中や公道を、時にいじらしく、時になり振り構わず疾駆していた三輪トラック。いわゆる〝バタバタ〟だ。オリエントの他にも、〈わたし〉は中学校からの帰り道で出会った「マツダHBR」(東洋工業)が忘れ難い。グレーと茶の鮮やかなツートンカラー車。東海道新幹線の初代モデルを先駆けるような、コアラみたいな〈ふくれっ面〉の斬新なデザインに、ビビッと電気が体を走ったのだった。村の農協が購入したものと分かった。家に着いてすぐ、取るものも取りあえず農協に駆けつけて対面を果たした。
そのデザインは柳宗理と並ぶインダストリアルデザインのパイオニア、小杉二郎。二郎の厳父は洋画家にして日本画家の小杉放庵だ。
もうひとつ加えたい。前記二社と同時代の「ダイハツ」車。RKO型などの三輪トラックであり、社内デザイナーが手がけていたそのデザインは端整だった。三輪トラックはやがてトヨタの「トヨエース」などの四輪トラックにたちまち取って代わられていくが、それでも〈わたし〉が上京した1960年代半ば以降もダイハツ車を目撃する機会が都内でいちばん多かった。ダイハツはその名称どおり大阪が発祥のメーカー。とりわけ軽三輪トラック「ミゼット」(1957年)を銘記したい。リスのような小回りを効かしていた愛すべき名車。その二年後に発売された、オートバイのようなバー・ハンドルから丸ハンドルに変わった二代目「MP」型は人気で、先に記した小杉二郎デザインの同じ軽三輪トラック「マツダK360」と双璧をなした。
その丸ハンドル「ミゼット」(1962年製)が先に記した香港の美術館「M+」に収蔵されたことは喜ばしい。1950年代にタイに輸入された中古車のミゼットが三輪タクシー「トゥクトゥク」として大車輪の活躍を見せたことも併せて思い起こされる。
本塩町の町名は、江戸時代にこの一画が「塩町」であったことに由来するだろう。そして大工や武具づくりの職人が多く住んでいたという(四谷三栄町の新宿区立新宿歴史博物館「四谷塩町からみる江戸のまち」展より)。図らずも前川や柳が体現している〈ものづくり〉と通底する。数百年を経て、この地に埋もれていた来歴は現代に蘇った。前川國男のこの事務所ビルはまさしく四谷の〝生き証人〟だ。
そういえば四谷界隈では豪壮なお屋敷は限られていたと思う。別言すれば当たり障りのない落ち着いたたたずまい。外濠を挟んだ向かいの千代田区番町地区が、江戸の旗本屋敷の流れを汲む、これみよがしとも映る高級住宅街であることとは対照的だ。
建築写真の大御所であり、東京都写真美術館の初代館長も務めた渡辺義雄の事務所には残念ながら縁がなかった。が、写真家と電車の席がたまたま隣り合わせになったことがあった。
写真家と当時の〈わたし〉は同じ都下小金井市住まいだった。80年代中ごろだったと思うが、それは武蔵小金井駅始発の中央線快速電車でのこと。同駅には車両基地があるため、ラッシュ時に始発電車が何本かあって席を取りやすかった。渡辺は駅南方の貫井南町の住人。〈わたし〉は反対の北口に住んでいた。貫井南町は駅南口から徒歩15〜20分ほどだろうか。当地までは大岡昇平が『武蔵野夫人』で描いたように、「突然下りとなる」きつい坂道がある。坂下には野川が東西に流れている。写真界の重鎮はすでに70代半ばを過ぎていたはず。自宅から歩いて駅まで来るのは、登り坂が待ち構えているだけになおのこと難儀だったろう。子息と思われる方の運転で駅まで送ってもらってきたところを目にしたこともあった。
大ベテランは恰幅の良いことが隣から体感できる。電車のほど良い振動に誘われるように、やがてほんのりと眠りに落ちた気配が伝わってきた。〈わたし〉は再度の転職によって四谷から離れたため新宿駅での下車となったが、渡辺には勝手知った中央線である。車内放送の告知や四ツ谷駅手前にあるトンネルに入った際の異音も手伝ってつつがなく目を覚ますに違いない。
四谷の丘の東端にあたるこの本塩町界隈には以前、すでに拠点を千代田区平河町に移していたものの、グラフィックデザイン界の大エース、亀倉雄策が住んでいた。日の丸を大きくあしらった名作中の名作「東京オリンピック公式ポスター第1号」10万枚が刷り上がったのは1961年だった。
三陽商会脇の比丘尼(びくに)坂を下り、ほつれた糸のように、いくつもの小路が迷路さながらに入り組む街区を抜け、四谷の丘から靖国通り方面に下る坂町坂を横断してさらに西に進むと、その途中左手斜面に小さな梯子のような階段が待っている。その階段を登り切ったあたりが三栄町の外れ。四ツ谷駅あたりを中心に広がる台地の北の縁(ヘリ)に当たる。そこに西欧発のモダニズムへの傾倒にもとづいてタイポグラフィの世界に新しい知見を拓いた研究者、小池光三が住んでいた。
〈わたし〉は小池の明快な理路に魅了され、ナマの講義を聞くことのできる「ヴィジュアル・デザイン研究所」に、社会人となった二年目に通った。夜間のデザイン理論科の講師のひとりに小池がいたのだった。研究所は地下鉄丸の内線茗荷谷駅上のビル内にあった。ビルはその名も「教育ビル」。東京教育大学やお茶の水女子大学、拓殖大学、跡見学園、貞静学園などが寄り集まっている、都内指折りの文教地区にふさわしい名称。研究所は教育大の芸術学科教授、高橋正人が主宰していた。
高橋はデザインの根底にあり、バウハウスの指導理念に通じる、「構成」を軸に置いた指導に当たったことで知られる。その薫陶を受けた教え子に勝井三雄や清原悦志ら、揺るぎない立脚地にもとづいて独自の活動を研ぎ澄ましたグラフィックデザイナーがいる。なお、〈わたし〉は同じ理論科で勝井からもデザインの概論的な講義を受けた。
小池宅裏の、四谷の丘の端を東西に走り、新宿区立新宿高等商工学校がその左手にある小路を経由して、〈わたし〉は荒木町にある食べ物屋に昼食をときたま取りに行った。
同校は1958年開校の勤労青少年少女のための二年制教育機関。新宿区内にはたとえば製本所が多く、何度か〈わたし〉はアルバイトで働いた。明らかに中卒で、集団就職で来たと思われる、あどけさを残す住み込みの若い従業員が少なくなかった。寝泊りはたぶん相部屋だろう。プライバシーは無いに等しい。同校はそうした若者たちの受け皿となっていた。使命を果たして閉校となったのが1985年。跡地は区立新宿歴史博物館となった。
荒木町通いは、かつての花街である同町の秘密めいた気配のたゆたいに惹かれてのものだった。しばらくして津ノ守(かみ)坂通りにぶつかる。四ツ谷駅方面から三栄町と荒木町の境を靖国通りに下る道である。その荒木町は全域が美濃高須藩主・松平摂津守義行の屋敷跡。坂の名もこれに由来する。なお、高須藩松平家は徳川本家と血のつながり濃い特権的な藩だった。ちなみに高須は現在の岐阜県南部の海津市。
荒木町中心部は四谷の丘の真ん中に、まるで巨大な鍋を落とし込んだかのような窪地となっている。まさしく異次元空間。「策(むち)の池」という小さな池もある。かつては大きな人造の池だった。松平摂津守が庭園内をえぐる谷の下流域に当たる北側を堰き止めて水をたっぷり湛えさせたもの。ここも元々は四谷の丘を侵していた谷のひとつだった。
その凹(くぼ)みに下るにはいくつかの抜け道があって、〈わたし〉は建設会社・浅沼組のビル横の狭い急坂を下っていくのをとくに好んだ。かつてのそのビル跡前には大イチョウがそびえている。新宿区の保存樹木だ。
亀倉がそうであったように四谷はグラフィックデザイナーとの縁が少なくない。
伊藤憲治は亀倉と同年生まれで、互いに並び立つ存在。四ツ谷駅に近い四谷一丁目に事務所があった。亀倉ほどの華々しさこそないが、戦後デザイン興隆の立役者のひとり。空間デザインでも活躍し、1950年代の銀座・和光のウィンドウ・ディスプレイと、同じ銀座の「ナショナルテレビ」(松下電器)ネオンサインが脚光を浴びた。グラフィックではとりわけキヤノンのロゴタイプは不朽の輝きを放っている。
次世代では森啓と神田昭夫。ともにモダニズムを咀嚼した学級肌で、出版デザインの世界で活躍した。森は鯛焼きの名店「わかば」の先にある若葉一丁目に事務所があった。タイポグラフィ史にも精通し、晩年は女子美術大学大学院で指導に当たった。独自の活字書体(フォント)に定評ある印刷の名門、精興社のその書体研究でも知られる。神田は四ツ谷駅から新宿方向に向かって左手、文化放送の近くに事務所を構えていた。カルチャー関連のポスターなどにも優品が多い。最後の指導先である長岡造形大学内において、不慮の事故によって六十代の若さで逝った。惜しまれる。
森啓のいたことのある同じ若葉地区では、森の四歳年少のブックデザイナー・鈴木堯の活躍も特記したい。アメリカ屈指の名門、プリンストン大学の出版局で修業してブックデザインとタイポグラフィを学んでおり、勤めていた東京大学出版会の仕事を中心としたシャープな造本作法はキリッとしていて、快い緊張感を胚胎していた。アメリカの良質な知的風土の写し絵であるかのよう……。なお、鈴木の薫陶を受けた女性スタッフふたりが現在、四谷三栄町でオフィスを構えている。
四谷は中央線快速で新宿駅にも、反対の御茶ノ水、神田、東京駅にも乗り換えなしで着く。同様に赤坂、霞ヶ関、銀座方面も地下鉄丸ノ内線一本で行ける。渋谷方面だけは乗り換えがあってちょっと厄介だが、ことの他の地の利がある。また、間近に元赤坂の迎賓館があり、外堀通りの下を中央線と並行している、土木学会の土木図書館のある外濠公園がある。さらに、「君の名は。」でもラストシーンで重要な役割を果たす須賀神社などの寺社が集まって、江戸時代に寺町が形づくられたことによる由来と重なる一画があり、涼しげな緑陰が濃い。須賀神社は四谷の総鎮守でもある。新宿御苑の森も近い。四谷の丘の風通しの良さと比べると、低地である神田や日本橋に立ったとき、淀むその空気の悪さにいつも滅入るのだ。
アメリカのある才気溢れるアートディレクターはバブル期の1980年代に刊行した「世界最大のデパート」東京のガイドブック『東京アクセス』で、「江戸は四谷で終わり」、新宿は単なる甲州街道の宿場町に過ぎなかったと論じた。それゆえに新宿の「底の浅さ」は今もって抜きがたいものがある、と。江戸の端にあたる四谷の存在感も同書では薄い。だが、四谷は17世紀寛永年間、仙台・伊達家らによって掘削された外濠越しにかろうじてつま先が「江戸」にかかり、町家が形づくられた。要所で番兵が見張りをするのが「見附」だが、それがあった場所を示す「四谷見附橋」(国電四ツ谷駅付近の外濠に架橋)もまたその由緒を物語る。
四谷、よつや、ヨツヤ―。星の数ほどの人々が行き交い、馳せ参じ、語り合い、それぞれがかけがえのない熱い想いを育み、それを稔らせる依代(よりしろ)となってきたトウキョウの十字路。そこには魅力的な丘が中心にあって、また周りをいくつもの谷が丘を精妙にえぐっている。起伏に富んだ地のその強力な磁力に改めて刮目(かつもく)したい。近接する新宿、赤坂、青山などに比べると目立たず、影も薄いが、それゆえにこその〈幸いの丘〉……。