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東京で見つける意外な「江戸遺産」 あの石垣は大名屋敷の跡だった

記事:平凡社

江戸城西の丸から遠望した富士見櫓(写真/香原斗志)
江戸城西の丸から遠望した富士見櫓(写真/香原斗志)

意外に見つかる石垣

 大名屋敷の敷地内には、政庁であり藩主や家族の居住空間でもあった御殿を中心に、数多くの建物が配置されていた。だが、そのほとんどは、江戸を占拠していたとは信じがたいほどに失われてしまった。しかし、痕跡なら意外と残っている。たとえばそれは、大名屋敷の周囲にめぐらされ、塀や勤番長屋とよばれた藩士たちの住居の土台になっていた石垣で、見すごされがちな場所に見つかる。

 福岡藩黒田家の上屋敷は、通りをはさんで向かい合っていた広島藩浅野家上屋敷(現在の国土交通省など)とともに江戸の名所のひとつで、歌川広重の浮世絵にも登場する。明治維新後は外務省の敷地になり、御殿が外務省の初代庁舎になったが、明治十(一八七七)年に焼失してしまった。この御殿の棟を飾っていた巨大な鬼瓦が、東京国立博物館の敷地内に移設されて残っている(池田家上屋敷表門の内側)。また、いまでも外務省の外周は、この上屋敷の石垣が取り囲んでいる。

外務省の外周を囲む福岡藩黒田家上屋敷の石垣(写真/香原斗志)
外務省の外周を囲む福岡藩黒田家上屋敷の石垣(写真/香原斗志)

 赤阪見附に残る江戸城の枡形の石垣とは国道二四六号をはさんで向かい側、衆議院議長公邸の外周には、正門付近を中心に松江藩松平家上屋敷の石垣が残る。赤坂見附から近い千代田区紀尾井町は、紀州藩徳川家上屋敷、尾張藩徳川家中屋敷、彦根藩井伊家中屋敷があったことから、それぞれの頭文字をとって明治時代につけられた地名だ。現在、紀州藩上屋敷を囲んでいた石垣の一部が文藝春秋の入り口の脇に残り、清水谷公園内の池と斜面に回遊式庭園の名残が見られる。尾張藩徳川家中屋敷の石垣も、上智大学の外周の外堀側に一部残っている。彦根藩井伊家の中屋敷跡はホテルニューオータニの敷地になり、外堀側には天明年間(一七八一~八九)に植えられたと考えられるカヤとイヌマキが、いまも枝葉を繁らせている。

衆議院議長公邸の外周に残る松江藩松平家上屋敷の石垣(写真/香原斗志)
衆議院議長公邸の外周に残る松江藩松平家上屋敷の石垣(写真/香原斗志)

文藝春秋の入り口には紀州藩徳川家上屋敷の石垣が(写真/香原斗志)
文藝春秋の入り口には紀州藩徳川家上屋敷の石垣が(写真/香原斗志)

 六本木から外苑東通りを青山一丁目に向かい、国立新美術館方面に左折したら、左側の一段低い道を歩いてほしい。右側に積まれているのは、佐賀藩の支藩であった肥前蓮池藩鍋島家上屋敷の石垣である。

  天皇、皇后両陛下が現在お住まいの赤坂御所がある赤坂御用地は、紀州藩徳川家が拝領した広大な中屋敷の敷地とほぼ重なる。麴町の上屋敷が手狭であったため、実質的にはこの中屋敷が上屋敷として機能していたという。現在、御用地の周囲は石垣で囲まれているが、特に外堀に近い北側は広範囲にわたって、中屋敷の石垣がそのまま使われ、屋敷の周囲をめぐっていた水路もかなり残っている。内部は非公開だが、地図上には中屋敷とほぼ同形の池がいまも同じ場所にあるので、庭園も当時の姿をある程度とどめているものと思われる。

 また、三田(かつての綱町)のイタリア大使館の敷地は、伊予松山藩松平家の中屋敷の一部で、外周には石垣が残る。内部は非公開だが、池泉回遊式の庭園が往時の面影をよく伝えている。日本人が維持できないものをイタリア人が守ってくれているのは、ありがたくも恥ずかしくもある。それはともかく、綱町一帯は全体に江戸時代の区画と雰囲気をよく残している。

イタリア大使館に残る伊予松山藩松平家中屋敷内の池泉(写真/香原斗志)
イタリア大使館に残る伊予松山藩松平家中屋敷内の池泉(写真/香原斗志)

 新宿区矢来やらい町の新潮社の周辺は若狭小浜藩酒井家の下屋敷だった。その周囲を囲んだ石垣が、牛込北町の交差点から牛込中央通りを神楽坂駅方面にのぼった左側の、旧興銀社宅(現矢来町ハイツ)の南側に残る。また、赤穂浪士の墓があることで知られる高輪の泉岳寺の北方は、熊本藩細川家中屋敷の跡地で、現在、上皇ご夫妻がお住まいの仙洞せんとう仮御所(旧高輪皇族邸)に隣接する都営高輪一丁目アパートの周囲に、石垣の一部が見られる。広尾にある聖心女子大学の南門付近にも、佐倉藩堀田家下屋敷の石垣が一部、組み直されてはいるようだが残る。

 外桜田門近くの彦根藩井伊家上屋敷の跡地には、井戸枠が残されている。桜田門外でたおれた井伊直弼を送り出した表門外の西側には、名水として知られた桜の井があった。最初にこの地を拝領した加藤清正が掘ったと伝えられ、昭和三十(一九五五)年には東京都が旧跡に指定したが、昭和四十三(一九六八)年、首都高速道路を通すために撤去されてしまった。十メートルほど離れた憲政記念館の敷地内に移設され、水源は失われたものの、石で組まれた立派な井戸枠は一見の価値がある。

(平凡社新書『カラー版 東京で見つかる江戸』「第二章 意外に見つかる武士の町の名残」より抜粋)

目次

第一章 江戸城を外から眺める
1 江戸城の外郭を一周する
2 江戸城の内郭を一周する――北の丸
3 江戸城の内郭を一周する――千鳥ケ淵~外桜田門
4江戸城の内郭を一周する――二重橋前~竹橋

第二章 意外に見つかる武士の町の名残
1大名屋敷の周囲に残る石垣
2いまに残る大名屋敷の建造物
3大名庭園を訪ねる――潮入の庭
4大名庭園を訪ねる――台地の庭

第三章 震災、戦災を生きのびた寺社
1将軍家の菩提寺
2将軍家ゆかりの寺
3将軍家ゆかりの神社
4江戸の遺産が見られる寺社さまざま

第四章 東京は江戸の土木遺産
1海と付け替えられた川の跡
2江戸をめぐっていた先進的水道網
3整備された街道の名残

第五章 東京の中枢に残る江戸城内を歩く
1 江戸城三の丸から「登城」する
2 江戸城本丸を歩く
3 江戸城二の丸を歩く
4 一般参観で江戸城西の丸を歩く

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